母を亡くしたダウン症の女性と父親の旅
2019年のベルリン映画祭パノラマ部門で国際批評家連盟賞を受賞しています。
カロリーナ・ラスパンティさんの映画
見始めてしばらくの間は、この映画、なんかへんだなあと思いながら見ていました。物語を進めようという意志が非常に希薄に感じられたのです。
こういうことでした。
この映画は、物語の進めることよりもダウン症のダフネを演じているカロリーナ・ラスパンティさんのあるがままを撮ることが優先されているのです。カロリーナさん本人もダウン症ということです。俳優ではありませんが、講演活動や自伝を書くなどの創作活動をしているそうです。1984年生まれですから37歳くらいです。
フェデリコ・ボンディ監督のインタビュー記事がありました。
インタビューそのものではなくその要約記事になっていますが、そのあたりのことを語っています。
演技未経験のカロリーナには脚本を渡さずに、シーンの最低限の意味合いや、核となる部分だけを説明して撮影を進めたという。「そうすることで、彼女の想像力を掻き立て、刺激を与え、即興的な演技につなげたかったのです」と監督。
「脚本を渡したら、真面目な彼女は完璧に台詞を覚えてきて、“演技をしています”という仰々しい振る舞いをしてしまう。そうではなく、彼女自身の自然な発露を導きたかったんです。ただ時には事前に台詞を与えることもありました。父親役の(アントニオ・)ピオヴァネッリさんをはじめとした、共演俳優との関係性もありましたから」とふり返る。
ということですので、映画としての基本的な物語はありますが、むしろこの映画はカロリーナ・ラスパンティさんの生き生きとした生き様を見る映画になっています。
ネタバレあらすじ
ですので、物語自体はあらすじそのものでしかありません。カロリーナさんを撮ることに多くの力が注がれています。
ダフネ(カロリーナ・ラスパンティ)が父親ルイジと母親マリアとともに休暇を楽しんでいます。キャンプ場のバンガロー(ロッジ?)のようなところでした。
帰り支度の最中に母親マリアが倒れてしまいます。病院に運ばれますが亡くなってしまいます。母親が倒れるシーンもダフネとルイジを撮っているカット(だったと思う)の奥でマリアの声がするだけです。
病院では看護師がダフネに鎮静剤を与えようとして、ダフネが何の薬?と尋ね、看護師が涙を止める薬と答えますと、ダフネは薬なんていらない、私は泣きたいのと言います。
このシーンは監督が語っている「事前に台詞を与え」たシーンのひとつでしょう。
母親の故郷(らしい)で葬儀が営まれます。かなりの田舎の描写です。家は残っていますが今は誰も住んでいないようです。
ダフネとルイジは都会での日常生活に戻ります。ダフネはスーパーマーケットの商品係(のような)として働いています。ルイジはなにかの店(忘れました)を経営しています。ただ、もう閉めようかとも言っていました。
職場では客や同僚たちからも慕われている様子が描かれていきます。
しかし、父親ルイジとの生活はマリアの存在の空白からかなかなかうまくいきません。時にぶつかったりします。そしてある時、ダフネはルイジに母親の故郷へ行こう、それも歩いて行こうと提案します。
公式サイトのストーリーにはその提案の理由をダフネが「父の異変に気付いた」とありますが、実際にはそのつもりで見ないとそうは見えません。こういうところが物語を進めようとする意思が希薄ということで、この場面だけではなく映画全体に言えることでもあります。
二人は徒歩で母の故郷(コルニオーロというところらしい)に向かいます。二人はどこに住んでいるんでしょう、映画でどこか語られていましたでしょうか。
映画の後半は二人のロードムービーになっているのですが、これといったエピソードもなく淡々と進みます。森林警備隊(のような)の二人と出会い、送ろうかと言われ、ルイジが止める(多分徒歩で行こうとしているのにという意味…)のも聞かず、ダフネはお願いしますと乗ってしまいます。車の中では警備隊の二人に婚約者は?と尋ねたりしてダフネ、つまりはカロリーナさんのフレンドリーな性格が描かれていきます。
ホテルに泊まります。ルイジとホテルの主との会話があります。ダフネが登場しないシーンはここだけじゃなかったでしょうか。
ホテルの主は、ダフネが自分の持つダウン症のイメージとあまりにも違ったのでしょう、ぽかんと口を開けているだけだと思っていたなどと言い、ルイジにつらかったでしょうと語りかけます。ルイジは、これまで妻に任せて自分は真正面から向き合うことをしてこなかった(といった意味)と語ります。
そして、二人は母親マリアの故郷に到着します。
その夜、ダフネは小さな袋を取り出しルイジに言います。
「この中にママの息が入ってる」
「ママはこの中で生きている」
きわめてシンプルな映画です。
ドキュメンタリーという選択もあったのでは?
フェデリコ・ボンディ監督が Director’s Note に書いているように、この映画はカロリーナ・ラスパンティさんなくしては生まれなかった映画です。監督はじめスタッフも、そして俳優たちもカロリーナさんを見守りながら作り上げた映画だと思います。
結果として過剰なドラマチックさが避けられ、ありがちな感動ものにならなかったことはこの映画の大きな力になっています。
ただ、それにより映画としての失っている面もあります。もちろんこれは批判ではありません。
ひとつは、ほぼ全編、俳優たちのダフネへの気遣いが画に現れていることです。映画であれ演劇であれパフォーミングアーツ系のものは、俳優が自分ではない何者かを演じることの緊張感がベースにないとなかなかいいものにはならないと思います。この映画の俳優にはどこか素に近いものが見え隠れします。
そしてもうひとつ、ダフネがクラブ(のようなところ)で踊るシーンやダウン症のコミュニティなのか仲間たち(かな?)と一緒のシーンがありましたが、そうしたところをもっと見たいと思いますし、映画としてはもっと多様な面を描かないと単調になるのではと思います。
監督の頭にある基本のドラマ、母を失った喪失感から父親が落ち込み、勇気づけるためにダフネが母の故郷へ行くことを提案し、最後に父親に母親の生きていた証を渡すという、そのドラマにこだわり過ぎたのかもしれません。
結果として、カロリーナ・ラスパンティさんを撮りたいという映画になっているわけですから、それならばフェデリコ・ボンディ監督が考えたドラマの枠組みに閉じ込めるのではなく、ドキュメンタリーという手法でカロリーナさんと監督とで新しいドラマを作り出していく方法も考えられたのではないかと思います。
ダウン症の人物が登場する映画ということで「チョコレートドーナツ」を思い出しました。