武曲 MUKOKU

これまた原作には興味を持ちますが、映画はダメでしょうタイトルや予告編で、何これ? 香港か中国のアクションもの? とか思いましたら、何と監督が熊切和嘉さんに主演が綾野剛さん、え? どういう映画? と興味を持ったわけです。

そもそも「ぶきょく」ではなく「むこく」と読むんですね。

それに原作が藤沢周さん。

ほう…と、俄然興味が湧いてきました。

監督:熊切和嘉

綾野剛、村上虹郎、前田敦子、風吹ジュン、小林薫、柄本明と比類なき個性を発揮する実力派俳優たちが顔を揃えた。監督は熊切和嘉。原作は芥川賞作家の藤沢周、脚本は高田亮、撮影は近藤龍人。ひときわ異彩を放つ才能たちが集まり作り上げたクライマックス6分間にわたる台風の決闘シーンは圧巻。(公式サイト

何とも焦点の定まらない映画ですね。

アクションものというほど大したシーンがあるわけでもなく、矢田部研吾(綾野剛)と羽田融(村上虹郎)の剣道のライバルものかと言えば、二人にその意識があるようにもみえず、結局のところ、見終わってみれば、二人のトラウマ解消ものなの? といった印象です。

で、どういうことなんだろうと、原作の書評など見てみましたら、とんでもなく面白そうではありませんか!

武曲 感想 藤沢 周 – 読書メーター

どうやら原作は、「青春もの」であり、「剣豪もの」であり、「親子もの」であり、そして精神的(禅的)奥深さも持っているようです。

原作がそうだとして、その点から映画をみますと、青春ものとしては爽快さも熱さもありませんし、剣術ものとしては緊迫感もスピード感もありません。

親子ものという点においては、確かに研吾と父の関係は親子であるという点においてはその通りなんですが、映画で強調されているのは、研吾が父親を殺したというトラウマに苦しみ続ける姿であり、親子ものというにはその描き方が一面的過ぎます。

健吾の父親(小林薫)は、剣道には相当厳しく、また思い込みも激しい人物で、子どもの研吾に「殺せ」といった(であったかどうかは記憶が曖昧)言葉で、剣道はスポーツではなく生死をかけた殺し合いであるかのような指導をしてきています。

ある日、高校生になった健吾は、父親との木刀での立ち会いで父親を植物人間にしてしまいます。

現在の健吾は、アルコール依存症状態にあり、剣道はやめて警備員の仕事をしています。

このあたりがよく分からないのですが、過去、出身校の剣道のコーチをやっていたようでもありますので年齢的には少なくとも30前後と考えれば、仮に父親を植物人間にした精神的ショックゆえに現在があるとすれば、10年以上もその状態のまま生きてきていることになります。

とにかく、ほぼ全編、健吾はアルコール漬けの状態に描かれています。

言っちゃなんですが、そんな状態を10年も続けていれば、とっくに剣道の腕など落ちているでしょうし、そもそもあんな料理屋さんで毎日二升も飲むような生活は続けられないでしょう。

そうそう、研吾の恋人役で前田敦子さんが出ていましたが、あれ必要? 原作にも出てくるんですかね?

酔っ払って障子やら家中のものに当たり散らしてぶち壊すシーンがありましたが、あの研吾なら毎日同じような状態で何でもかんでも当たり散らしているでしょうから、とっくの昔に家中ゴミ箱のような状態になっていても不思議じゃないでしょう。

暴れた次の日、壊した建具を庭で燃やしていましたが、壊したものに比べて随分しょぼい量でした(笑)。

まあこういうところが気になる映画というのは、そもそもいい映画ではないということなんですが、いずれにしても、最初から最後まで人間が変化していかない映画は見ていられません。

もう一方の羽田融(村上虹郎)、書評などを読みますと、原作はこちらが主人公ではないのかとも思うのですが、せっかくの村上虹郎さんを使っていたにもかかわらずうまく活かせていなかったように思います。何でしょうね、融の存在そのものに連続性が感じられず、何だかぶつ切れのような印象でした。

剣道が上達していく過程があるのかとも思いましたが、そうした扱いでもなく、そもそも、融には剣道における殺気のようなものがあるべきなんでしょうが、そうしたシーンがないことが、結局のところ、クライマックスの決闘(?)シーンがまるで緊迫感のないものになった原因でしょう。

どうやら映画は、そうしたところに力点は置かれておらず、研吾と融、この二人のトラウマ解消ものであるようで、融にも、幼いころに溺れそうになったというトラウマがあるとされており、時々溺れそうになる幻影に悩まされる描き方がされていました。これって原作もそうなんでしょうか? なんだかとってつけたような印象でした。

この村上虹郎さん、「ディストラクション・ベイビーズ」でその眼差しの鋭さに、彼を主人公で撮るべきだったと書いたくらいですので、本人のせいとは思いたくないですね。

映画の売りなんだろうと思われる「クライマックス6分間にわたる台風の決闘シーン」もまったくもって物足りません。

結局のところ、脚本のせいなのか、監督のセンスなのか、人間を情緒的、感傷的にとらえすぎなんでしょう。

人間の行いは意味不明であり説明不能であるからこそ、映画にしても文学にしても存在意義があるのだと思います。特に、映画は存在そのものに力のある人間を描ける表現形態なのですから、そうしたものを期待したいです。説明できるようなものを描いてもそれは映画ではありません。

これだけはやめてほしいシーン(台詞)がありました。

研吾には行きつけの料理屋があり、どうやらその女将(風吹ジュン)は父親の愛人だったらしく、ある日研吾が酔いにまかせてなのか、何かを振り払うためなのか、唐突に女将を押し倒そうとします。

まあそれはともかく、その時の女将の台詞「こんなおばあちゃんを…」って、どういうセンス?

(2017/6/26)原作を読んだ感想があります。