ララの究極の選択は本当に性別違和の解決か?
これまた何度も見せられた予告編から、性別違和を抱える男の子が周囲の偏見、差別に負けずにバレリーナ(女性バレエダンサー)を目指して頑張る感動ものかと思っていましたら、まったく、まったく、違っていました。
ベルギーという国は、LGBTに対する施策が進んでいるということで有名な国でもあります。それだけ世間の寛容度が高いということでしょう。ちょっとググっただけでも「『明日から女性になります』トランスジェンダーを公表したテレビ局の記者の思い」などという記事がヒットします。日本の30年は先をいっている感じがします。
そうした国の映画です。ララ(ビクトール・ポルスター)の周囲には(目に見える)偏見はありません。ラスト近くに、衝撃的な結末の(ひとつの)きっかけとなるバレエ学校の女子同級生たちのいじめシーンがありますが、映画は基本的にはララに対する偏見を描こうとはしているわけではありません。
父親マティアスは、ララの意志、考え、判断を尊重しています。多少干渉が過剰と言えなくもありませんが、15,16歳の子どもが身体的性別を変えようとしていることを考えれば当然でしょう。
カウンセラー(精神分析医?)やホルモン投与などの治療をする専門医も現在の価値観でいけば対応は完璧でしょう。
この映画での公共性の象徴であるバレエ学校の対応にしても、教室での自己紹介のシーン、教師がララに眼を瞑るようにいい、他の女子生徒たちにララが女性用更衣室を使うことの可否を尋ねていたことをどう考えるかにもよりますが、一概に間違っているとは言えないでしょう。
(2021/7/6追記)よく読まれている記事に上がっていましたので読み返しての追記です。上の教師の行為は明らかに間違っています。
生徒たちには、偏見というよりも好奇の目というべきかと思いますが、そうしたものは描かれます。一般家庭の唯一の描写である、ひとりの女子生徒の家での誕生パーティー(一泊)のシーンで、その生徒の親がララにのみ別の部屋をあてがっています。そこで上に書きました女子生徒たちのいじめがあります。
しかし、映画は、そうしたことから直接的なドラマを導き出そうとしているわけではありません。
では、映画は何をやろうとしているのか?
成功しているかどうかは別にして、映画はララの内面にこだわろうとしています。カメラはひたすらララを追い続けます。バレエのレッスンシーンで全身を撮れないのはポワントができないでしょうからやむを得ないとしても、全体の印象としても、ララのアップを取り続けている感じです。
その手法はほぼドキュメンタリーです。
ララが性別違和を抱えていること、自分の身体の男性的特徴に拒否感を感じていること、およそ100分の映画のうち、ほぼ9割、その姿を追い続けます。
しかし、ララは何も語りません。父親にも、カウンセラーにも自分の思いや悩みを打ち明けようとはしません。当たり前です。ララを演じるビクトール・ポルスターさんにはそれがないからです。
その意味では、ルーカス・ドン監督は極めて正直です。ララに言葉を与えようとはしていません。おそらく監督にもわからないからでしょう。わからないことをわからないままに描くことにおいては正直という意味です。
で、ルーカス・ドン監督はどうしたか?
ララに究極の行為によって決着させます。ララ自らに、自分自身の男性器を切断させることで決着させています。
仮にこれがドキュメンタリーであるならば、誰にも想像できないその深い苦しみにただただ言葉を失うだけです。
しかし、これはドラマです。ひとりのトランスジェンダーの男性を追い続け、その彼の苦しみに迫ろうとすることなく、ただその男性的身体的特徴を無きものにすることによって、ラストカット、あたかもララに憑き物が落ちたように晴れ晴れとさせることに、映画としてどんな意味があるのでしょう? ショートヘアに変えていることからすればバレエもやめたということの表現でしょうから、あれだけ必死になっていたバレリーナを目指すことの意味もまったく意味不明になってしまいます。もちろん、ショートヘアのバレエダンサーがいないという意味で言っているのではなく、あえてショートヘアーにしていることの意味を言っているだけです。
ドラマで撮るなら、仮に批判を受けることになっても語るべきです。
とにかくこの映画は、身体的性別観、女性的乳房があるかどうか、男性器、あるいは女性器があるかないか、それだけで性別違和感、トランスジェンダーを描こうとしています。
そういうものかどうかは私にもわかりません。