現在進行中の実話を描くフランソワ・オゾン監督
公式サイトには現在でも裁判が進行中とあります。
フランス、リヨンのカトリック教会の聖職者による児童への性的虐待事件を描いた映画です。実話に基づいているということで、エンドロールの前にその後の裁判の経過がスーパーで入っており、確か2020年の日付もあったように記憶していますがどういうことなんでしょう? この映画の製作年は2018年ですし、昨年2019年のベルリンで銀熊賞審査員グランプリを受賞しています。
カトリック教会における児童への性的虐待事件は随分前に日本でも大きく取り上げられていたと記憶しており、ウィキペディアを見てみましたら2002年にアメリカでメディアが取り上げたことから各国で告発が広がったということのようです。ただ、ウィキペディアには(まだ?)フランスの項目がありません。
日本でも実名で告発された方がみえます。
日本では、男性(公表当時62歳)が実名での性的虐待被害を告発した。児童養護施設「東京サレジオ学園」に在園していた小4の時に元園長のトマス・マンハルド神父から1年間にわたって性的虐待を受けたという。 2020年6月、国内の被害者たちが長崎市内で集会を開き、被害者の会の設立を宣言した。(ウィキペディア)
2020年6月に被害者の会を設立って、先月じゃないですか。告発されたのは昨年のようで文春と長崎新聞の記事がリンクされています。
で、映画ですが、フランソワ・オゾン監督が実話もの? という意味では、へぇーって感じの新鮮さも感じますが、前作「2重螺旋の恋人」でも書きましたようにこの監督、どんなテーマの映画を撮るかの志向性はかなり多様で、その興味はむしろ映画づくりそのもの、いろいろな意味での映画的な面白さを求めているのではないかという気がしています。
この映画でも、内容はいわゆる告発ものですので容疑者の犯罪を暴く過程、たとえば犯罪行為を否定する加害者を追い詰めていくとか、あるいは逆に被害者の葛藤や苦悩を描くことを軸にすることもできたのでしょうが、そうした面はあまり強調されておらず、とにかく印象的なのは告発者たちが積極的に行動する姿です。
実話がどの程度反映されているのかはわかりませんが、オゾン監督はこの描き方が映画的に最適と考えたということだと思います。
映画は3人の被害者を軸に進みそれぞれのシーンがオムニバスのように構成されています。その3人の行動がバトンタッチで受け継がれるように進み、被害者の会が結成され、そして裁判まで持ち込まれます。
アレクサンドル(メルヴィル・プポー)は妻と5人の子どもを持つ40歳前後の男性です。彼が告発の先陣を切るわけですが、映画が始まりますとすぐに自分はプレナ神父から性的虐待を受けたと始まり、妻や子どもにも告白し、教会の担当者とメールのやり取りをするという展開ですので、正直面食らいます。
そのメールのやり取りがナレーションでかなり速いテンポで入り、あれよあれよという間にアレクサンドルと加害者であるプレナ神父が直接対面するシーンになります。
さらにびっくりすることにそのプレナ神父はアレクサンドルと対面するや即座に性的虐待の事実を認めてしまいます。そして、これは病気なんだと言ってのけます。
え? これからどうなる? という感じですが、このアレクサンドルのパートはかなり速いテンポで進みます。アレクサンドルは教区のトップ(でいいのかな?)の枢機卿とも面会し、その事実が認定され、プレナ神父の聖職を解くように申し出ます。しかし、教会は一向にプレナ神父を処分しませんし教会としての責任を取ろうとしません。
アレクサンドルはことを公にする決断をしますが、自身の被害事件は時効になっており訴追できません。きっと多くの被害者がいるだろうと確信し、時効となっていない被害者を探すためにも告訴することを決意します。
アレクサンドルの決断はフランソワ(ドゥニ・メノーシェ)に引き継がれます。
と言っても、それは映画の後半、3人目のエマニュエル(スワン・アルロー)が登場して初めてわかることで、ここらあたりでは実のところなんだかよくわからないうちにアレクサンドルがいなくなってしまったという感じがします。
具体的にどういう経緯であったか記憶できていませんが、警察がフランソワの母親を訪ねますと、母親は当時プレナ神父の行為について教会へ手紙を出したことがあると言ってその手紙を出してきます。
思い返してみれば、そこらあたりからあれよあれよという間にフランソワのパートになってしまったという感じです。
これは映画としてはあまりいい出来ではありませんね(ペコリ)。
このフランソワにしても登場するや特に葛藤や苦悩が描かれることもなくプレナ神父告発のために積極的に行動し始めていました。
と感じながら見ていたんですが、あるいは字幕がうまく表現できていなかった可能性もありますね。この映画はとにかく言葉が多いですのでそのまま訳していたのではおそらくうまく映画の本質を伝えることは難しいでしょう。字幕翻訳ってシナリオを書くくらいの能力がないとできない仕事だと思います。
話を映画に戻しますと、アレクサンドルは匿名で告発しています。匿名ということもよくわかりませんし、時効になっている事件の告発が受理されるのかも気になるのですが、とにかくフランソワはその告発に勇気づけられ、被害者の会(的なもの?)を作るために奮闘します。
このフランソワのパートはそうした活動を描くことに重きが置かれています。
ここで気になったのが、最初の告発者がアレクサンドルであるとわかりふたりが会う場面でアレクサンドルが社会の眼があるからと協力することに消極的なことを言います。
これはかなり違和感がありました。アレクサンドルのパートでは彼が消極的になる理由がまったく描かれていません。なぜ匿名なのかと思うくらい積極的でした。
3人目のエマニュエルが最も被害の後遺症に苦しんでいます。突然発作を起こして痙攣するシーンが2度描かれ、自分はアレクサンドルやフランソワのように家庭も持てないと嘆いていましたし、実際パートナーの女性ともうまくいかないようです。
エマニュエルのパートはそうした被害の後遺症に苦しむ姿を描くことに力が注がれている印象は受けました。
ということでプレナ神父と枢機卿など教会関係者が起訴されます。その後の経過はスーパーで紹介されて映画は終わっています。
言うまでもなく、また教会だけではなくいかなる状況にあっても児童への性的虐待などあってはいけないことであり加害者は裁かれるべきですので、たとえキリスト教世界を実感として知らなくても普遍性のあるテーマだとは思いますが、映画としてそうしたことが強く伝わってくるかと言えばかなり微妙な映画です。
あるいは裁判が進行中であることが影響しているのか、犯罪そのものの加虐性や残酷性、また被害者たちの葛藤や苦悩、そしておそらく宗教絡みであるだけに被害者が浴びるであろう世間からのバッシングなど描くことはいっぱいあるのにそうしたことを避けているようにも思います。
あえてそうした描写を避け被害者たちが過去を乗り越えて強く生きる姿を描く意図があったのかもしれません。
ただ、実話にもとづき、かつ現在進行中の題材を選ぶのであればもう少し明確なメッセージがあってもいいのではないかと感じる映画でした。