蛇にピアス

映画は原作のもつ一面しか描かれていないかもしれない…

現在上映されている映画に見たくなるようなものがなく、「風よ あらしよ 劇場版」を見て、吉高由里子さんってどういう俳優さんなんだろうと気になったこともあり、ほぼデビュー作の「蛇にピアス」を見てみました。

それにしても上の画像、夢見る少女のようなDVDジャケットです。内容を反映させたら売れないとでも思ったんでしょうか(笑)。

蛇にピアス / 監督:蜷川幸雄

吉高由里子さんは守られていたのだろうか…

原作を読んでいますので内容はわかっていたのですが、映像化されますとなかなかすごいですね。

で、これを見て最初に浮かんだことが、吉高由里子さんはちゃんと守られていたんだろうかということです。現在のようにインティマシー・コーディネーターといった発想もなかったであろう20年近く前ですし、現在でも男性社会と言われる映画業界のこと、19歳の吉高由里子さんが嫌だと思うことを嫌と言える環境にあったかどうかということです。もちろん、ARATA(現在は井浦新)さんや高良健吾さんについても同じではありますが、セックス描写に関しては女性の方が圧倒的にリスクが高いでしょう。

それにアザのひとつやふたつは出来たんじゃないかと思います。いくらカット割りされているといっても SMシーンなんて手を抜いたら嘘っぽくなっちゃいますからね。吉高由里子さんを評価すべき映画です。

そうしたことはともかく、吉高由里子さん、俳優ですから褒め言葉にはならないかもしれませんが、いい意味で変わってないですね。声質が特徴的ですので役柄が限定されるかもしれないとは思います。

原作に忠実な映画…

あらためて原作をざっとながめてみましたら、映画はかなり忠実に作られています。台詞はほとんどそのまま使われています。

蜷川幸雄監督は舞台演出家ですから、原作の言葉を大切にしているということなんでしょう。演劇の場合、自作のものでもない限り、脚本を書き換えるなんてことはまずやらないと思います。脚本をどう読み取るかが演出家としての評価にもつながります。

映画の脚本家は、原作があっても結構書き換えちゃいます。なかにはこの作家なら絶対にありえないと思うようなシーンまで入れちゃう脚本家もいます。

で、映画です。

生きている実感、あるいは生きようという意欲を持てないルイ(吉高由里子)がスプリットタン男アマ(高良健吾)と出会い、舌ピからスプリットタンに挑戦、そしてタトゥーへと身体改造していきます。

ピアスというのはゲージというサイズがあって、最初は 16Gから 14Gくらいで、スプリットタンの場合は、そこからどんどん大きくしていき、0 そして 00 、さらに分数で表すサイズのもので穴を広げて、最後はメスやカミソリで切り離すらしいです。

ルイは、おそらくその日のうちにでしょう、アマのアパートに転がり込みます。そして後日、アマに連れられて怪しい店(何の店か表現しようがない…)に行き、スキンヘッドに顔中ピアスだらけの店主シバと出会い、スプリットタンの入口、舌ピをします。

ここって、スミもやっているんですか? と尋ねるルイに、シバは携帯番号を書いた紙を渡してきます。シバは自分が S だと公言し、またルイもその誘いに乗り、自分は M だと言っています。

そして後日、ルイはシバを訪ね、刺青を入れることにし、そのデザインをアマが入れている龍とシバが入れている麒麟にします。その後、ルイとシバの SM のセックスシーンになるのですが、映像ですから生々しいと言えばそうなんですが、実は表現自体は小説のほうがすごいんです。怪しさを狙っているわけではありませんので描写は淡白なんですが、言葉の表現は直接的で映画の比ではありません。

という3人の関係が続きます。ルイは19歳、アマは、髪を赤く染め、顔中ピアスだらけで見た目は怖そうですが、後に18歳だとわかり、甘えん坊キャラですっかりルイになついでいます。シバは24,5歳、サディストを公言し、バイセクシュアルでもあります。ただシバの方もルイには執着しているのか、ラスト近くでは結婚しようと言ったりします。

そして後半、純愛ものともいえる展開になります。

意外にも純愛ものか…

かなり早い段階で、ルイとそのギャル友とアマが暴力団員二人に絡まれて喧嘩となり、制御のきかないアマがその一人を殺してしまいます。

この暴力団員をやっているのがなんと、藤原竜也さんと小栗旬さんです。他にも唐沢寿明さん、市川亀治郎さん、井手らっきょさんが友情出演しています。蜷川幸雄監督の人脈ということだと思います。

で、目撃証言によって赤毛で龍の刺青をした男が捜索中であることを知ったルイは、なにも言わずにアマの髪を他の色に染めたり、長袖を着せたりします。

ああ、その前に重要なことがありました。シバの店での刺青も進み、ルイが龍と麒麟には目を入れないでと言います。なぜと聞くシバに、目を入れると飛んでいってしまいそうだから(画竜点睛…)と答えます。

後日、アマが帰ってこなくなります。そして死体で発見されます。アマの身体にはナイフの傷やタバコを押し付けられた痕が無数にあり、手と足の爪がすべて剥がされ、ペニスには線香がさしこまれています。

映画では見た目はさほど変化ありませんでしたが、流れとしては、ルイはアマがいなくなる随分前からなにも食べず酒しか飲まない状態になっており、すっかりやせ衰えています。病院に通うような状態になっています。

そんなこともあり、アマのいなくなったルイはシバの店で過ごすことになります。そしてアマのことばかり考えるようになります。

警察からアマについての情報がもたらされます。ペニスに挿入されていた線香がアメリカから輸入されている〇〇だとのこと、そしてアマがバイセクシュアルじゃなかったかと尋ねられます。

そして、ルイは同じ線香がシバの店にもあることを知ります。アマの身体に押し付けられていたタバコの種類はマルボロのメンソールであり、アマもルイも、そしてシバも吸っているものであることもわかっています。

ルイはそうした疑念を持ちつつもシバのもとにとどまり、そして、龍と麒麟に眼を入れてほしいとシバに頼むのです。

擬似的死の世界にまどろむ…

映画では、吉高由里子さんの美しくも健康的な雰囲気が強く出ていますので、それが良い反面、死の世界にまどろみたいといった空虚さがあまり感じられないのが残念なところです。

ルイが生きている世界は一般的な価値観からいけばかなり特異であり、また危険な香りのする世界ですが、たとえば、アマが愛に飢えた甘えん坊であったり、シバが結局のところルイとのわりと一般的な生活を望んでいたり、ルイ自身も、仮にシバがアマを殺しているとしても逆にその死の匂いのする世界にまどろむことで、それが現実逃避であるとしても、生きている、あるいは生きなくちゃいけないという人間に重くのしかかる生存の抑圧から逃れるための安住の場所のように思えるということが原作の主要なテーマなんだろうと思います。

原作の空気を守っているという意味ではいい映画だとは思いますが、原作以上のものがないという意味では凡庸な映画ではあります。