コットンテール

真面目さは感じるが、人物の背景描写がなくダイジェストのよう…

海外の監督が日本の物語を日本人の俳優で撮るというのは、最近ではヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」がありますが、あれは日本の企画で監督オファーですのでちょっと違いますし、あまりないですね。

パトリック・ディキンソン監督は早稲田大学で日本映画を学んでいたとありますし、なんの卒業制作かはわかりませんが、2013年に「USAGI-SAN」という短編を撮っています。トレーラーを見ますと日本人の俳優ですし、この映画と設定が似ています。

コットンテール / 監督:パトリック・ディキンソン

ロードムービーっぽい家族物語…

スコットランドのウィンダミア湖に遺灰を撒いてほしいとの妻の遺言により夫と息子夫婦が旅をするというロードムービーです。

遺灰をめぐる映画というのは結構あるようでこのサイト内でも遺灰で検索しますと10作くらいヒットします。その中でも同じイギリスの話ということで思い出すのが「君を想い、バスに乗る」という映画で、90歳の夫がイギリスの最北端から最南端までの1300kmをバスを乗り継いで旅をするというものでした。

距離でいけば、この「コットンテール」のほうが東京からイギリスですので長いのですが、この映画はロードムービーではあっても、むしろ家族物語と言ったほうがいい映画でした。

妻、明子(木村多江)の葬儀の日から始まります。夫、兼三郎(リリー・フランキー)が悲しみを紛らわせようとしているのか、町中をうろつきまわり、市場でタコを盗み(かな?…)、行きつけの寿司屋へ行きそのタコで握ってもらっています。

映画の手法はモンタージュ手法で、街の風景を入れたり、兼三郎のアップの画を入れたり、兼三郎を後ろから追っかけたり、街の雑踏を効果音とともに入れたりしながら人物の心情を描こうとしています。

結果、兼三郎が、悲しみであるかまではわかりませんが、何かを紛らわそうとしているんだなと伝わってくるということです。言葉での説明はもちろんのこと画も説明的なものはほとんどありません。

そして、寿司屋でタコの握りが出ますとフラッシュバックが入ります。兼三郎と明子の出会いの日(だと思う…)です。

あの若さでいきなり寿司屋で待ち合わせなんてことはないとは思いますが、外国人にとっては日本=寿司という発想なんでしょうか。

身勝手な父親像は誰のもの?…

これ以降、ほぼ最後まで兼三郎の身勝手さが続きます。

兼三郎は酔っているのか家でゴロゴロしていますと、息子の慧(錦戸亮)が葬儀に間に合わないと慌ててやってきます。兼三郎には毅然としたところがまるでありません。妻を失った悲しみだけではなく、そうした人生を歩んできているように見えます。

それが演出なのか、はからずもリリー・フランキーさんの演技によって出てしまったものなのかはわかりませんが、兼三郎は完全に昭和の男です。人の言うことを聞かず身勝手ですし、妻がいなければ家のことは何も出来なさそうですし、子どものことも妻に任せっきりで仕事が忙しかったと言い訳を言っています。フラッシュバックでは、明子がたばこは嫌だと言っても、間が持たないからと聞こうともしません。

そんな兼三郎に振り回される慧と妻のさつき(高梨臨)です。映画にその意図があるのかどうかまではわかりませんが、私にはそうとしか見えない映画です。ですので、この父親像はパトリック・ディキンソン監督のものなのか、あるいは日本での生活で感じたことなのかということに興味がいく映画ということです。

とにかく、葬儀の際、兼三郎と慧はお寺の住職から明子から手紙を預かっていると渡されます。その手紙には自分が死んだら遺灰をウィンダミア湖に撒いて欲しいとあります。

ピーターラビットのふるさと、湖水地方へ…

兼三郎は一人で行くと言っています。慧が自分たちも行くと言いますと兼三郎は好きにすればいいと突き放します。

ロンドン(かな…)に゙着いたは着いたで、慧が行程を考えてチケットを取っているにも関わらず、今すぐに行こうと言ったりします。慧夫婦が出掛けている間に勝手に孫を連れ出してしまったりもします。挙句の果てに、何も告げずにひとりでウィンダミア湖に向けて列車に乗り込んでしまいます。

結局、列車を乗り間違え、途中下車して、雨の中をさまよい、親切な親子に助けられ、ウィンダミア湖まで車で送ってもらいます。しかし、そこは明子が残した写真の場所とは違います。兼三郎は親切な親子に促され慧に電話をします。

それでも慧は怒りません。そういう父親だとわかっているのかもしれません。

兼三郎は車でやってきた慧とともに写真にある湖を探し回ります。それらしき湖を探し当てますと、兼三郎はひとりで行くと言います。最後まで身勝手な兼三郎です。

慧とさつきの我慢強さに涙が出ます(涙)。

しばらくして後を追った慧と兼三郎がわかりあったようなシーンがあり、二人で明子の遺灰を湖に巻き、そして皆でうさぎを追いかけて終わります。

説明しないことはいいことだが…

なんだか、批判的な書き方になってしまいましたが、映画だけを見ればこうとしか見えない映画だと思います。

おそらく、パトリック・ディキンソン監督の意図はそうではないと思います。ただ、映画からは兼三郎と明子の数十年の生活はまったく見えてきませんし、慧がどのように育てられたかも見えてきません。兼三郎と慧の間がしっくりきていないことはわかっても、それが何故なのかが映画からは伝わってきません。

言葉で説明しないことも説明的な画がないこともとてもいいことだと思いますが、逆に言えば、人物の背景となるシーンがなさすぎるということです。

フラッシュバックでは、出会いのシーンとたばこのシーンがあり、その後明子が若年性認知症の発症を告げられるシーン、明子がほぼ完全に意識消失してベッドで排便してしまうシーン、そして最後、おそらく兼三郎が自らの手で明子を尊厳死(他に言葉が見つからないので…)させたと思われるシーンがあるだけです。

これではダイジェスト版みたいなものです。ある意味では物語はありきたりであるわけですから、もう少し現実感のあるシーンを入れないと、説明しないことでかえって映画以外のもの、公式サイトや解説サイトの説明に委ねることになってしまいます。

ところで、明子は全身の痛みに苦しんでいるという設定でしたが、認知症以外に何を発症していたんでしょう。そうしたこともかなり疎かになっています。

なんだか、批判的な書き方になってしまいましたが、やはりこうしたシリアス系の映画はその背景となる時代や生活感を描けないと薄っぺらいものになってしまうということだと思います。