芦田愛菜の演技と大森立嗣監督の演出で日日是好日以来の秀作に!
大森立嗣監督というのは(私には)とても不思議な監督で、前作の「MOTHER マザー」でも散々に書きながらなぜか見に行ってしまうという監督です。
なにか感じるところがあるからだとは思いますが、それにしても、これも毎回書いていることですが出来不出来の落差が激しい監督です。
この映画はよかったです(笑)。
ただ、よかったのは演出面、それと俳優たちで、映画の内容自体に強く心に残るものはありません(ペコリ)。
その点では「日日是好日」がよかったことにかなり近いです。
そのレビューに書いていること、
まあ言ってみれば、(黒木)華ちゃんがお茶を習っている映画と考えればいいように思います。それで一本の映画になるんですから俳優としては優れているということでしょう。もちろん樹木希林さんや他の俳優さんたちあってのことではあります。
からいけば、この映画は思春期(中学生)の(芦田)愛菜ちゃんの自己確立のある一時期を見ているような映画と考えればいいと思います。そして同じように他の俳優さん、永瀬正敏さん、原田知世さん、黒木華さんあたりは当然のこととして、同級生のなべちゃんをやっている新音さんと新村くんの田村飛呂人さんの存在がとても効いていて、突っ込んで描けばかなりシリアスな物語になるものをまるで学園ドラマの趣に変えています。
原作は今村夏子さんの『夏の子』です。
ちひろは未熟児として生まれ体中に湿疹が出るなど病弱な体質です。様々に手を尽くす両親(永瀬正敏、原田知世)ですが一向によくはならず、ある時父親が同僚に勧められた「金星のめぐみ」という水を使ってみたらみるみるうちに湿疹も消えちひろも元気になります。
それを機に両親は「ひかりの星」という宗教団体に入信し、その水さえあれば病気をすることもないと信じ際限なくのめり込んでいきます。夜、公園に出て頭にタオルを載せ、そこに金星のめぐみを注ぎ、そのタオルを頭に載せたままで生活するという奇妙な行為までするようになります。
ちひろにはまーちゃんという姉がいます。ちひろが小学校低学年(くらい)の頃のことです。ある日、母親の兄がやってきます。両親は兄にも金星のめぐみを勧めます。突然兄が言います。「その水は水道水だ。お前たちが留守の間にまーちゃんといっしょに全部変えておいた。いい加減に目を覚ませ!」
しかし、両親は聞き入れず、帰れ!と怒鳴り返し、取っ組み合いになります。その上、なぜかまーちゃんまで包丁を持ち出して泣きながら兄に帰れと訴えます。もちろんちひろも泣きじゃくって帰れと訴えます。
ちひろ(芦田愛菜)は中学三年になっています。
ここまで長く書きましたが、映画では冒頭数分程度でちひろの乳幼児時代が描かれ、すぐに中学時代になります。小学生の頃のエピソードは中学時代の何か所かのシーンに突然挿入されます。最初は一瞬戸惑いますがそうした手法とわかれば違和感はありません。
当然中学三年生のちひろが映画のほとんどを占めるわけですが、あらためて思い返してみますと、ほとんど学園ドラマです。
イケメンの南先生(岡田将生)が新任でやってきます。ちひろのあこがれとなり、ノートに南先生の似顔絵を書く毎日です。親しく話すなべちゃん(新音)や新村くん(田村飛呂人)との話題も、付き合っているふたりが喧嘩しただの将来結婚するの?といった他愛のない思春期の会話です。
ちひろの両親が新興宗教にハマっていることはふたりはもちろん皆知っているようです。ただ、それによりちひろが白い目で見られたりいじめられたりする描写はまったくありません。ちひろ自身もそのことを隠そうとしているようにも見えませんし、悩んでいる様子をことさら強調した描写もありません。なのにちひろがどことなく皆から浮いた存在であることが伝わってきます。
これが不思議なんですね。芦田愛菜さんの存在感ということなんでしょう。そして、それを活かした演出ということだと思います。
(映画の中の)日常の何気ない表情にも友だちや両親の会話でふっと浮かべた笑顔にも心の中に何かがあることが感じられるのです。
この何かというわからなさが重要で、これは映画の結末にも関連しますが、ちひろには両親を含め自分が社会から奇異な目で見られる存在であることはわかっており、また「金星のめぐみ」にも科学的な意味での効果があるわけではないことも、自分はもちろん、あるいは両親さえそのことはわかっているのではないかといった自己確立過程の迷いのようなものがちひろの中に存在していると感じられるということです。
ある時、帰りの遅くなったちひろたちを南先生が送ってくれます。公園で例の奇妙な儀式をやっている両親がいます。南先生は不審者がいるから気をつけろと言います。
翌日(かどうかははっきりしないが)、南先生から、送ったことで噂をたてられて困ると言われたちひろは、あの不審者は両親ですとはっきりと言います。
こういうところのシナリオと演出がとてもいいです。
南先生とちひろがまったく別次元にいる、つまりふたりの頭の中はまったく別のことでいっぱいになっているということであり、この時、ちひろは社会の目というものをはっきり意識し、それでもなお南先生の目をしっかりと見て自分自身を対峙させるほどにちひろを一段成長させ、それにより南先生のうろたえを見せることでちひろという人物をしっかりと描いています。
ラストとなるシークエンスは一年に一度の「ひかりの星」の研修旅行です。信者の家族がバスで本部へ向かいます。ちひろは両親とは別のバスになります。到着した本部のホールでは体験発表や決意表明やたまたま隣り合わせになった信者と話すなんとかの時間といった行事が続きます。ちひろは両親を探しますが見つかりません。友だちにお母さんが探していたよと言われて探しても会えません。
ちひろの不安が伝わってきます。結局母親がふっと現れ星を見に行くよと誘いに来ます。
うっすらと雪が積もった山間の原っぱ、敷物を敷き肩を寄せ合い空を見つめる三人、父親が流れ星だ!と言いますがちひろや母親は見逃しています。母親が見えた!と言いますがまたもちひろは見逃します。
三人がみんなで一緒に見ようと空を見つめる姿で映画は終わります。
かなり甘い終え方だとは思います。おそらく原作のものでしょう。個人的にはあまり好ましい終え方だとは思いませんが、映画としては、芦田愛菜さんとまわりの俳優たちのバランスのよさ、そして大森立嗣監督の細部にわたる演出でいい映画になっていると思います。
なお、書いていませんが、「ひかりの星」の幹部(なのかな?)役の黒木華さんと高良健吾さん、宗教団体が一般的に持たれる怪しさや胡散臭さをうまく出していました。
ただ、「ひかりの星」自体の描写はほとんどなく、「水」販売のマルチ商法的な手法や宗教団体の錬金術手法については、おそらく原作にもないのでしょうが一切触れていません。ちひろの周囲の会話として教団絡みの話に拉致だと監禁だのといった危うい話が語られてはいました。
なべちゃんをやっている新音(にのん)さん、えらく大人を配役したもんだと思って見ていたのですが実際に15歳、中学三年生じゃないですか! 気づきませんでしたが「まく子」でした。
姉のまーちゃんはいつの頃か家出をし、一度帰ってきますが、もう戻らないと書き置きして出ていき、ラストシーンで母親がまーちゃんに子どもが生まれたそうと話していました。
まーちゃんをやっていたのは「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」でとても良い印象を持った蒔田彩珠さんでした。
ということで、映画、特に大人の世界は完全にファンタジーなのに、ちひろにだけは芦田愛菜さんであるがゆえの現実感があるという不思議な映画でした。