テレビの中に入りたい

なぜ非現実性やフィクションと現実の融合が自分には身近なのかを探求した…

「テレビの中に入りたい」とはまた子どもっぽいタイトルですし、Wikipedia にはサイコホラーなんてありますので私が見るべき映画じゃないかもと思ったのですが、いくつかジェーン・シェーンブルン監督のインタビュー記事を読んだところ、その理屈っぽさゆえに興味が湧いてきました。

テレビの中に入りたい / 監督:ジェーン・シェーンブルン

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ネタバレあらすじ

いじめ? DV? 違っていた…

前半は結構面白く見られます。

映画は、7学年(12、3歳…)のオーウェンと2学年上のマディの話で、この二人が周りに適応できない様子が描かれていくわけですが、その理由は何なんだろう、家庭なのかな、学校なのかな、日本ならいじめか DV だななんて考えているうちに前半が終わっていたという感じです。

で、結局その理由は最後までわかりませんでした(笑)。

とにかく、時代は1996年です。テレビ番組にハマるって話ですから今じゃないですね。現実の登場人物は少なく、オーウェンの両親と大人になってから働く映画館の同僚くらいです。場所も明確になっていませんがアメリカの大きくない地方都市といった感じです。

学校なんでしょうか、オーウェン(イアン・フォアマン)が、壁に持たれて本を読むマディ(ジャック・へヴン)を注視します。呼んでいる本のタイトルに「ピンク・オペーク(The Pink Opaque)」の文字が見えたからです。

「ピンク・オペーク」はティーンエイジャー向けのテレビ番組で、オーウェンはその予告を見て、本編をみたいと思っているのに父親に許してもらえません。番組は土曜日の10時30分スタートなのに10時にはベッドに入るようにきつく言われているのです。

マディはアウトサイダーっぽい雰囲気を醸し出しています。オーウェンは内気な性格のようで遠慮がちに声を掛けます。ポツポツとした会話ながら、見たいけれども見られないというオーウェンに、マディが土曜日に見に来たらと誘います。

オーウェンは友達の家に泊まると嘘をつき、それも父親にではなく母親から父親に頼んでほしいと言っています。

「ピンク・オペーク」の内容は、イザベルとタラという二人の少女がミスター・メランコリーというヴィランと戦うという内容でその映像がその時代のものとして荒い映像でつくられています。二人(マディの友だちもいるが重要ではない…)はすっかり番組に入り込んでいます。引用したキービジュアルのような感じです。

その夜はオーウェンは寝袋で眠り、マディは2階に上がっていきます。マディの家庭環境はどうなっているんだろうと思いますが、マディは義理の父親のことちらっと漏らしていますので、ん、DV? 性虐待? と考えながら見ていました。

そういう展開ではありませんでした。ほとんどのシーンが二人のシーンか、そこに「ピンク・オペーク」のシーンが入るだけで構成されていますので、二人がどんな問題を抱えているのかなかなか見えてきません。

前半では孤独なんだなくらいしかわかりません。

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シュールだけれどホラーじゃない…

2年の月日が流れています。オーウェンは初めて「ピンク・オペーク」を見て以来、時々は嘘をついてマディの家で見たり、VHS に録画してもらったりですっかりハマっている状態です。

ある日、マディが家を出ることにしたと宣言します。そしてオーウェンにも一緒に来るように促します。しかし、オーウェンは怖くなったのでしょう、両親にこれまで嘘をついていたことがバレるように仕組んで自分からは外に出られない環境を作ろうと必死に策略を巡らせます。

そして、マディはいなくなります。同時に「ピンク・オペーク」も突然終了してしまいます。

さらに8年後、オーウェンは映画館で働いています。このパートからオーウェンの俳優がジャスティス・スミスさんに変わっています。また、このことがどういう意味があるのかわかりませんが、母親が癌でなくなったと語られます。

このあたりからこの映画は一体何をやろうとしているのかわからなくなります。ここまでは10代の子どもたちの生きづらさを描こうとしているのかなといろいろ考えながら見ていたんですが、二人の生活環境を描くこともなく、ただ二人が「ピンク・オペーク」にハマっていることしか描かれませんし、その番組にしたところがこれといってどうということのない内容ですので、と言うより、あまり説明されません(わかる人にはわかるということかも…)ので、このあたりから集中力が切れ始めている状態です。

映画館でもオーウェンはひとり浮いた状態です。そこに、ある日突然マディが現れます。マディは話がしたいと言いクラブへ連れ出します。

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結局、わかんない、けれど…

これ以降うまく説明する自信がありませんので(笑)、以下は Wikipedia を読んでこういうことらしいという内容です。

マディはこの8年間「ピンク・オペーク」の中で生きてきたと言い、実は自分とオーウェンはその中の主人公のイザベルとタラであり、「ピンク・オペーク」こそが現実であり、今この世界は偽りだと言います。

そして、二人で生き埋めになれば「ピンク・オペーク」の世界に戻れるとオーウェンを誘います。オーウェンは家に戻り VHS を取り出して最終話を確認します。そこではミスター・メランコリーに捕らえられたイザベルとタラが生き埋めにされて終わっています。オーウェンは混乱し、精神を病み、テレビに頭を突っ込もうとします。

4年後、オーウェンが働いていた映画館は倒産し、ゲームセンターになっています。あれ以来、マディは姿を消しており、オーウェンの精神状態はさらに混乱しています。

ある日、オーウェンは配信で「ピーク・オペーク」を見てみます。しかし、それはあまりにも幼稚で安っぽい内容であり、登場人物も違ったものにみえるのです。

さらに20年経ち、オーウェン50歳くらいです。職場でのパーティーの最中、突然オーウェンは死にそうだと叫び始めます。しかしそれに反応するものは誰もいません。オーウェンはバスルームに入り、胸をカッターナイフで切り裂きます。その裂け目からテレビの光が溢れ「ピンク・オペーク」が流れています。

パーティーに戻ったオーウェンは皆に謝りますが、反応する人は誰もいません。

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感想、考察:なるほど、そういうことか!

という、私には考察などできない映画でした。

二人共に現実逃避ということはわかるのですが、その訳が描かれませんのでただ現実に違和感を感じているということ以上のことを理解するにはジェーン・シェーンブルン監督の話を聞くしかないです。

この映画はどこから生まれたのかの質問に、

And so for me on this film, there was this idea of being haunted by an unresolved cliffhanger from a child’s show, and the idea specifically of the characters on the TV show being in a certain kind of danger. That [feeling of] not having resolution, and that making it hard to exist in the “real world,” to the point where you’re almost taking on the pain of those characters. And from there, I really wanted to investigate why that particular mental metaphor or idea, and this sort of unreality and merging of fiction and reality that’s inherent in it, was so close to me.

この映画では、まず、子ども向け番組で終わりがわからないというクリフハンガーに悩まされるというアイデアがありました。それは、解決の糸口が見つからない、また現実の世界では生きられないと悩む登場人物たちの痛みを引き受けているような感覚でした。そこから、なぜ私はそうしたメタファーや考えにとらわれるのか、また、なぜその非現実性やフィクションと現実の融合が自分には身近なのかを探求したかったのです。
https://www.polygon.com/24158543/i-saw-tv-glow-jane-schoenbrun-interview/

映画にそのまま描かれていますね。さらに続けて、その答えも語っています。

I knew fairly early on that what I was talking about was a trans experience and dysphoria. And as I was beginning to work through dysphoria and beginning my actual transition, I understood this as a movie about recognizing something that’s wrong, and about the process that goes into that recognition.

私は早い段階でそうしたものが私の性別違和とトランスジェンダーの経験からきているとわかっていました。私の一連の作業は、性別違和を乗り越え、性別越境をスタートさせたときに始まっており、この映画は今この現実の何かが間違っていることを認識するプロセスを描いていると理解しています。

ということでいけば、オーウェンは性別違和を抱えており、マディは「ピンク・オペーク」のタラが姿を変えて、あなたはイザベルだよと気づかせるために現実世界にやってきたということになり、しかし、オーウェンは怖れで越えられずに精神を病んでしまったということになるのでしょうか。

いや、ラストシーンではオーウェンは「エッグクラック」のように自分の胸を割っていましたので、自分の性自認を認識したということかも知れません。

パーティーの参加者たちは固まってまったく動いていませんでしたね。世間の冷たい目ということかも知れません。

それにしても映画見ただけでは、これらのことを知って見ないとジェーン・シェーンブルン監督の真意はわからないですね。

ところで「テレビの中に入りたい」ではなく「I Saw the TV Glow」ですので「テレビが光るのを見た」ですかね。