見る者を100%不快にさせる映画から何を見い出すか…
これはマイク・リー監督がどういう映画を撮る人かを知っていないとただうんざりして終わりそうな映画です。いや、知っていてもダメかも知れません。裏の裏を読まないと何をやろうとしたのかに辿り着けそうもありません。

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ネタバレあらすじ
誰彼なく当たり散らすパンジー
イギリスの労働者家族の話です。日本人の眼から見ますと黒人家族であることに意味があるように感じてしまいますがイギリスではどうなんでしょう。まったく意識されていないことはないとは思いますが、おそらくそれよりもマリアンヌ・ジャン=バプティストさんで撮ることが大前提でしょう。じゃなければ撮れていないような映画です。
専業主婦パンジー(マリアンヌ・ジャン=バプティスト)、配管工の夫カートリー、22歳のニートの息子モーゼスの家族の話です。というよりもパンジーひとりの話ですね。
戸建ての住まいはとてもきれいに片付いています。パンジーの潔癖さの表現でしょう。キッチンの全面ガラスの窓からは小さな庭が見えます。出入りできるガラスドアがあり、映画を最後まで見ていきますとこのドアの開閉にもなにがしか意味がありそうです。パンジーには虫や動物や、おそらく花までも避けている様子がみられます。
このパンジーの強烈なキャラクターを見せられることになります。なにかにつけ人に当たりまくるのです。見ている者には何が原因で怒り出すのかまったくわかりません。いきなり相手を攻撃し始めるのです。夫カートリーに対してはもはやその存在自体を拒絶しているようですし、モーゼスについてはその引きこもり体質を思い悩んでいる様子も感じられるもののやはり口から出るのは強い口調の小言ばかりです。
パンジーが当たり散らすのは家族だけではありません。外出してたまたま接触することになるショップやスーパーの店員、その客、歯医者、駐車場で空きスペースを探す人、描かれるのはそれくらいですが、人に会えば相手が誰であれ攻撃的になるということです。中にはその人の見た目を侮辱するシーンもあります。
とにかく、なぜいきなり怒り出すのかわけがわかりません。
当然ながら、それはあえてやっているわけですから、それこそがこの映画のやろうとしていることになります。つまり、見る者にパンジーの心のうちを考えろと言っていることになります。
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妹シャンテルと母親の墓参り
そうしたパンジーと対比するように妹のシャンテルを登場させています。シャンテルは寛容な人物です。
美容師のシャンテル(ミシェル・オースティン)には二人の娘がいます。いきなり切り替わるシャンテルの家族のシーンでは、何がそんなに楽しいの(笑)と思うくらいにしゃべり、笑い合い、踊ったりしています。
娘は二人とも社会に出て、一般的にその年齢にふさわしいと思われる生き方をしています。これもモーゼスと対照的に描いているということでしょう。
シャンテルの美容院にパンジーが来ています。さすがにシャンテルには攻撃的ではありませんが、そのかわりあれこれ愚痴を激しい口調で喋りまくっています。シャンテルが母の日に母親の墓参りに行こうと提案します。パンジーは躊躇している様子です。
母の日です。パンジーとシャンテルが墓参りに来ています。相変わらず何かれとなく毒づくパンジーですが、突然、私が見つけなきゃよかったと言い出します。それ以上のことは語りませんが、どうやら母親は孤独死であったようです。さらに、母はシャンテルばかりを可愛がっていた、父親が出ていったあと母は自分にはつらく当たった(こんな意味合いだった…)と断片的に言い出し、そして、自分は家族に嫌われていると嘆き始めます。シャンテルはそんなことはないと慰め、何があってもあなたを愛していると抱きしめます。
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母の日の出来事、そして…
シャンテルのアパートメントで母の日のお祝いです。カートリーとモーゼスも招かれています。シャンテルの二人の娘が食事を振る舞っています。パンジーとシャンテルは墓でのやり取りを引きずっているようで、パンジーはじっと黙ったまま食べようともしません。シャンテルがカートリーにお母さんの様子はどうと尋ねますが、なんとなく有耶無耶に流れカートリーとモーゼスは黙したままスプーンを口に運んでいます。
席を立ったパンジーをシャンテルが追いかけていきます。パンジーは寄り添ってくれるシャンテルにカートリーを見るのも嫌なのと漏らし、なぜ結婚したのと多少のとがめ口調で尋ねるシャンテルにひとりで死にたくなかったと答えます。
リビングに戻った二人に娘たちがいいことがあるよと言い、モーゼスを促します。モーゼスは小さな声で花を買ったと言います。奇妙な長い間があり、突然パンジーが大声でヒステリックに笑いだし、その笑いが次第に泣き声に変わり、絞り出すようにありがとうとつぶやきます。
パンジーの住まいのキッチンです。テーブルの上にはモーゼスから贈られた花束が置かれています。じっと見つめていたパンジーは食器棚からガラス瓶を取り出し花を生けます。ただその素振りはかなり不自然です。何らかの内面を表現しようとしているんでしょうがよくわかりません。また、その経緯は記憶にありませんが、庭へのガラス戸を開けたままにします。カートリーがやってきます。パンジーは、シャンテルがカートリーに母親のことを尋ねた際に何も答えず馬鹿みたいに食べていたと詰りキッチンから出ていきます。しばらく生けられた花を見ていたカートリーはガラス瓶から花を取り出し、庭に投げ捨て、そしてガラス戸をバシンと締めます。
翌日、カートリーが仕事中に腰を痛め家に戻ってきます。送ってきた同僚が寝ているパンジーを呼びにいきます。パンジーは驚き飛び起きます。
その頃、散歩に出ていたモーゼスに同年代の女性がこれ(ポテトかな…)食べない?と声を掛けてきます。
キッチンではカートリーがひとり残され嗚咽を漏らしています。いまだパンジーは下りてきていません。
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感想、考察:怒りの裏には悲しみがある
マイク・リー監督の映画にはシナリオはなく、全体の大まかな流れが記された設計図(プロットみたいなものか…)のようなものをベースにして監督と俳優の共同作業でつくりあげていくとのことです。あらかじめ書かれた台詞もないそうです。ですので、この映画のパンジーの膨大な量の台詞もマリアンヌ・ジャン=バプティストさんがマイク・リー監督の考えたプロットに自分が置かれたとしたらどうするかということから生まれたと考えられます。その共同作業は即興ということではなく、具体的な期間はわかりませんがそれなりの期間をかけたものとのことです。
多くの場合、怒りの裏には悲しみや絶望があります。それが相手に対して理不尽であっても当人にとっては吐き出さざるを得ない何かがあるということです。
このパンジーの場合は、母親の記憶が影響しているであろう孤独と不安からきていると考えられます。おそらくパンジーの内面はそこにあり、映画が何をやろうとしているかわからないながらも、裏があるとすればそれがひとつの答だとは思います。
だがそんな単純なことだろうか、と映画は言っているのではないかと思えてきます。あえて、え! やり過ぎじゃないの?! と誰もが思うことをやっているわけです。おそらくパンジーに感情移入してこの映画を見られる人は誰もいないでしょう。
裏の裏は何なのか、それは誰にもわかりません。というよりも、マイク・リー監督にしてみてもしっくりこないもの、ああそういうことねと分からないからこそ、これでよしと考えたのではないかと私は思います。
実際、商品を見に来ている客の接客をしようとして声を掛け、いきなり怒鳴られた上に容姿まで攻撃されたとしたら一体どうしたらいいのでしょう。誰もそんな相手と遭遇したくはありませんし、日々ともに過ごしているカートリーの身になってみれば早々と離婚を言い出しているのが一般的だと思います。
究極の人間関係を見せられているような映画です。人は誰もが物語ることができない何かを心の奥底に持っているということなのかも知れません。