海街奇譚

男の妄想映画だが、それもわかってやっているようでもあり映画づくりのセンスはいい…

これもお盆休みに見た映画です。おもしろいと言いますか、興味深い映画です。物語としてはひとりの男の追想映画ですので特別どうこうはありませんが、すべてのカットが構図ファーストで撮られており、そのセンスがとてもいいです。

海街奇譚 / 監督:チャン・チー​

映像表現、音楽表現を楽しむ映画…

脚本、監督は中国のチャン・チー監督、1987年生まれですから現在38歳くらい、この映画の製作年が2019年ですから32歳くらいの時の映画です。

この「海街奇譚(In Search of Echo)」が長編デビュー作で、その後、2021年に「记忆囚笼(Annular Eclipse)」、そして今年2025年に Kunlin Wang(クンリン・ワンかな?)監督と連名で「好好说再见(The Shore of Life)」という緩和ケアを描いた映画を撮っています。

中国の映画も随分変わってきたという印象の映画です。

物語としては、あまり売れていない俳優の朱(チュウ)がある島を訪れて当て所なくさまよう話です。ただそれだけです。でも見るべきところは多いです。

日本の公式サイトには

仕事のオファーがほとんどない俳優の朱(チュウ)は、愛する妻と最初に出会った島で妻の行方を探す。閑散期で観光客のいない島の光景を愛用のカメラでフィルムに焼き付ける朱。さまざまな島民との出会い、ホテルのオーナーと親しくなり、小学校の先生に惹かれ、地元のダンスクラブのマネージャーと恋に落ちる。

とありますが、映画からわかることは、チュウは妻から別れを告げられてその島に心の傷を癒やしに逃げてきているということだけです。本人が「妻を探しに来た」と言いながらも「気晴らしだ」(どちらも字幕…)と自虐的に打ち消しています。

チュウは常に二眼レフカメラを持ち歩いており、写真を撮る素振りは見せても何かを焼き付けようとする意志は感じられませんし、島の住民にしても出会いはあるにしても特別親しくなるわけではなく、ダンスクラブのマネージャー(以下、ダンスホールの女性…)と恋に落ちもしません。小学校の先生には惹かれはします。

ただ、恋とか惹かれるとかあまり重要ではなく、結局のところすべてが現実か幻かわからないような映画であり、実際、妻もダンスホールの女性も小学校の先生も同じ俳優が演じています。

とにかく、こうこう、こういう物語ですと語るようなものはなく、傷心の男の脳内妄想映画です。何がどうなってなどと考えずに、美しい構図だなあとか、ここにこのシーンをつなぐかとか、ここにこの音楽かなどと映画のつくりを楽しむ映画です。

変態殺人犯、それはすべて現実か幻か…

島の数カ所での出来事や過去の妻とのやり取りが交錯して編集されています。学校、防波堤、旅館、ダンスホール、そして妻と暮らした都会の住まいです。

島で出会う人物は、まず旅館の女将(オーナー)、双子の妹から旅館を引き継ぎ、今は繁盛して儲かっていると言っています。事実かどうかはわかりません。実際、今は閑散期だからと客はチュウひとりのようです。

この映画の室内のシーンは海の中のようにブルーを使って演出されており、この旅館のシーンでは時にその室内を外からガラス窓越しに撮ったカットが突然入ったりしてとてもおもしろいです。

このパートは会話がかなり多く、映画の最初ですので説明的な意味合いもあるのでしょう。カブトガニの夕食を挟みながら女将は妹が帰ってこないとか自分も昔はきれいだったとか、失ったものへの悔恨を語りながらチュウに迫ってきます。

このパートはチュウが女将を殺したかも知れないとサスペンス風に終えています。旅館の日めくりが8月5日(すべて8月5日…)で止まっており、チュウが床に横たわる女将に、妹は帰ってこない、8月5日にお前が殺したと投げつけたり、海に向かって麻雀牌の一索を捨てるとその水しぶきがやけに大きかったりと現実なのか幻なのかわからないようにつくられています。

女将を殺したかどうかわからない演出は、今、チュウに俳優として話が来ているのは「変態殺人犯(字幕…)」の役らしく、それとの関連の演出だと思います。また、その役を受ける受けないは妻との諍いの原因になっており、妻とのシーンはほぼこの会話で成り立っています。妻はしきりに受けるように強く迫っています。チュウはそのオファーが妻の浮気相手の男からのものではないかと考えています。

女性はすべて妻のメタファー…

この妻との会話は、かなり小洒落た室内で行われており、妻が私の家から出ていってと言っています。妻は社会的な成功者であり、夫は売れない俳優という設定のようです。

島は嵊泗列島(ションスー列島)のいずれか、都会は上海の設定のようです。

島には町長とその息子や漁師の男がいて、漁師は海に出られないと言っています。その理由は仏様の首が消えたことのようなことを言っていました。町長も妻が帰ってこないと言っていますし、他にもよくわかりませんが文根の両親も海に出て戻ってこないとか結構頻繁に出てきます。

これらも具体的なことというよりも、とにかくこの映画の中で何かがなくなっている、あるいは失われたことがキーワードになっています。チュウが妻を失ったという喪失感のメタファーだと思います。

ダンスホールの女性は漁師の夫を失ったと言っています。この女性とは恋に落ちはしませんが関係をもったようなシーンになっており、その後この女性もチュウが殺したかのようにサスペンス風に終えています。

女性はすべて妻のメタファーであり、殺したかのようなシーンは妻が勧める変態殺人犯の役や愛するがゆえに自分から離れていく女を殺したいと思う男の身勝手な妄想の幻想シーンだと思います。

変態殺人犯役は、女の本音、男の戒めたれ…

小学校の先生との出会いはかなり現実的です。その出会いも海の中のような幻想的なシーンにはなっておらず、島に到着早々に学校はないかと尋ねて向かったその小学校で出会い、その後、海岸沿いの道路でナンパし(笑)、ふたりで映画を見ながら、その女性は打ち解けたように微笑みます。

妻との出会いの再現でしょうか。そして、

船の上で結ばれます。多分、そういうことでしょう。下の画像、船の上に出ているのは女性の足ですから(笑)。

その船の中、チュウはカメラを手にし、その女性、妻であるかも知れない、小学校の先生であるその女性をフィルムに収めようとファインダーを覗きます。

しかし、そこには誰もいません。

妻が去ってしまい、ひとり残されたチュウのモノローグ、

俺が君を理解するようになぜ我慢強く俺を理解しない。
俺の思う愛とはなんだったのか。
なぜ、これほど執着し、ねじ曲がるのか。
たぶん、愛が存在する証しを探し、消えるのを防ごうとした。
見つからなければ探し続ける。精魂尽きるまで。
太陽が輝いている。今日はいい天気だ。
そのドアを出なければこの世界には今も俺と君だけだ。
(字幕から…)

と、男の身勝手な妄想が語られます。多分、妻がしきりに勧めていた役の台詞という設定でしょう。

その台本には「この劇は回顧だ。回顧は真実と違い脚色できる」とあります。

その後の2、3シーンは映画的な回収でテーマ的にはあまり意味はないでしょう。

一度見てみるといい映画だと思います。