語られることではなく、語られないことが見えてくる…
ベルギーのレオナルド・ヴァン・デイル監督の長編デビュー作です。この映画が目についたのはプロデューサーにダルデンヌ兄弟監督の名があったからです。他に大坂なおみさんの名もあります。
プロデューサーにはその前にエグゼクティブ、共同、協力、ライン、それに各部門の名がつくプロデューサーがいますが、この映画には23名(IMDb)もクレジットされています。ダルデンヌ兄弟は co-producer ですので共同プロデューサー、大坂なおみさんはエグゼクティブ・プロデューサーです。
レオナルド・ヴァン・デイル監督によれば、大坂なおみさんとはカンヌでのプレミア上映の数週間前にエグゼクティブ・プロデューサー契約を交わしたということです。

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ネタバレあらすじ
挑戦的なリアリズム映画…
なかなか挑戦的な映画です。冒頭からこれはリアリズムだと宣言しているような映画です。
ほとんどのシーンがフィックスで撮られており、カメラが動くのはせいぜいジュリーがクラブ対抗試合に出場するダブルスの試合の1シーンくらいだったと思います。ダブルスのシーンは他の緊張感あふれるシーンとは異なり、ジュリーがパートナーと試合に勝とうと声を掛け合って試合に集中しており、映像的な緊張感がすーと溶けるようなシーンです。
フィックスで撮られているのは、たとえそれが激しく動き回るテニスの練習であっても、コーチとふたりで話すときであっても、学校の授業中の様子であっても、夜自室でスマホに向かうときであっても、それらはすべてジュリーの内省的なシーンであり、カメラはただただジュリーの心の中に渦巻く何か、その内面性を撮ろうとしています。
カメラが追うのはジュリーのみであり、その各シーンを説明的につなぐこともなく、極端に抑制的な映画です。
意図は明白です。つくり手の意図やそれによって生まれるつくられた物語性を排除し、俳優を信じることから生まれるつくりものではないリアリティある物語を求めています。
そこから見えてくるものは何か。
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ジュリーは沈黙を守り続ける…
この映画は過去に何が起きたか、なぜジュリーは沈黙を守っているのかを描こうとしているわけではありません。
15歳のジュリー(テッサ・ヴァン・デン・ブルック)はテニスアカデミーに所属し将来を期待されているアスリートです。しかし、今、担当コーチのジェレミーが指導停止の処分を受け、ジュリーも精神的に不安定な状態にあります。処分の理由は、ジェレミーの教え子であり、ジェリーと同じように将来有望であったアリーヌが自殺し、その原因にジェレミーの関与が疑われているからです。アカデミーは調査を始め、ジュリーになにか知っていることはないかと問いかけます。
しかし、ジュリーは沈黙を守り続けます。
映画であれ、演劇であれ、小説であれ、物語を語るジャンルのもので、こうした発端があれば、じゃあその原因は何なのか、何があったのかが語られていくのが一般的です。アリーヌの自殺の原因は何なのか、ジェレミーとの間に何があったのか、そしてジュリーは何を知っているのか、といったことが最後に明らかにされ、見る者、読む者はああそういうことかと納得がいきます。
でも、この映画は何も明らかにしません。ジュリーの沈黙をまるで定点カメラのように追い続け、そしてジュリーの中で何かが変わり、最後には国の強化選手に選ばれる事実を捉えているだけです。
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あえて何があったかを想像すれば…
あえてアリーヌの自殺の原因を考えれば、多くの人が想像するのはコーチがアスリートを精神的に支配することから起きるパワハラや性的虐待かと思います。あるいはこのケースの場合、ジェレミーがふたりを競わせて、その結果ジュリーを選んだことからの絶望ということも考えられます。
あえてそうしたことを考えるのであれば、そのヒントになるシーンもあるにはあります。
映画前半、ジュリーはジェレミーが指導停止になったあとでもスマホで指示を受けています。ジェレミーは新しくコーチとなったバッキーを貶し、指導に従うなと強く言っています。
ジュリーがジェレミーとカフェで会うシーンがあります。当然秘密裏にです。ジェレミーとジュリーの力関係の差は明白ですし、ジェレミーには自己弁護的な雰囲気があり、そして最後にジェレミーの口調が強くなり、前のめりでテーブルの上のジュリーの手を握ります。ジュリーは咄嗟に手を引っ込めます。ジェレミーは、やめてと言われて、やめたよなと強く念を押しています。
こんなシーンもあります。集団でのレッスン中、新しいコーチのバッキーが皆の前でジュリーにセカンドサーブの見本を見せてくれと言い、完璧だと言います。また、別のシーンでは、ジュリーは自分が遅刻しても何のペナルティも課せられず、そのことに他の生徒が文句を言う声を耳にするシーンもあります。
練習に参加できなくなりコートから離れて立ちすくむジュリー、バッキーがやってきます。ジュリーは特別扱いはやめてほしいと訴えます。
こうしたシーンは決して説明的に配置されているわけではなく、見終えて思い返せば、ぽつんぽつんと入っていたこうしたシーンでジュリーに心の変化が起きていたのかも知れないと感じます。
そして、ある日、ジュリーはバッキーにコーチになってほしいと言います。
おそらく、ジュリーはバッキーに特別扱いされることでジェレミーのときには気づかなかったことに気づいたんだと思います。つまり、ジェレミーに認められたいと思うことがすべてでまわりが見えていなかった過去、そしていまバッキーに特別扱いされることでそうした過去の自分を客観視できたのではないかということです。
ジュリーは今自分が目指すべきことを自分の力で掴み取ったんだと思います。国の強化選手選定試験に向かいます。コーチは一緒かと尋ねられ、いえ、ひとりで参加すると答えています。
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感想、考察:物語らずとも物語は生まれる…
この映画では、たとえばアカデミーや両親がジュリーの沈黙に対して過度なプレッシャーをかけたり、アカデミーの他の生徒たちがジュリーを無視したりするようなシーンはありません。アカデミーの責任者ソフィーはジュリーに寄り添う姿勢を見せており、映画終盤になってジュリーの方から電話でありがとうと伝えています。両親はわりと影が薄い存在にしてあることもあり、ただジュリーを見守っているように見えます。
がしかし、そうであっても映画中盤までジュリーは沈黙することで孤立しています。ジュリーの沈黙はなぜなのか、それに対しても映画は答えていませんが、おそらく何かを隠しているのでもなく、自分自身整理できないくらい様々なことが頭の中をめぐり言葉にできないのだと思います。
映画冒頭、ジュリーがただひとりシャドウテニスをするシーンはそうしたジュリーの心理を象徴しているようです。
往々にしてこうしたケースでは大人は子どもがなにか隠していると考えがちになり、問いただしたりすることもあるかも知れません。そうではなく子ども自身が気持ちを整理できるまで根気よく待つべきだと、この映画は言っているようです。
映画は、アカデミーの仲間たちがジュリーの強化選手入選を祝福するシーンで終えています。
ジュリーを演じているテッサ・ヴァン・デン・ブルックさんは実際にテニスプレーヤーであり、この映画には初めてのオーディションで選ばれているそうです。プレイシーンは力強く本物ですし、堂々たる演技です。2006年生まれですので現在19歳くらい、撮影時は16、7歳くらいでしょうか。率直なところ成人のテニスプレイヤーに見えます。
レオナルド・ヴァン・デイル監督は1991年生まれですので現在34歳くらいです。インタビューではケン・ローチ監督やダルデンヌ兄弟監督の映画が好きだと言っています。手法はどちらとも随分違いますが、リアリズム指向という点では傾向としては近いものがあります。IMDbにも次作の情報はありませんが是非見たい監督です。