この映画には俳優モトーラ世理奈ではなくハルがいる
10年という時の流れを経てもなお癒やされない悲しみを俳優の演技だけで表現することはかなり難しいことだと思います。それをやってのけたのがモトーラ世理奈さんであり、監督の諏訪敦彦さんです。
東日本大震災のことです。
ラスト、亡くなった家族へ「風の電話」をするハル=モトーラ世理奈、10分か、15分か、カメラはそのハルをアップでとらえたままです。それを見る者は、感情移入の涙さえ流れず、肩に力が入ったまま、ただ凝視するしかありません。
始まってしばらくはハルの人物像を掴みかねます。
東日本大震災から8年、両親と弟を亡くし広島の叔母広子(渡辺真起子)の元に身を寄せているハルは高校三年生になっています。朝、広子が朝食の支度し、ハルに声をかけます。しばらくして制服姿でやってきたハルに年相応の溌剌さは感じられません。広子が一方的に声をかけるだけでハルは答えもしませんしほとんど反応もしません(そう見えます)。
何がハルをそうさせているのかはまだわかりません。ただ、広子はそうしたハルに対して特別な感情の動きを見せません。つまり、それが日常だということです。
シーン変わって、ハルが玄関で登校しようとしています。
「ひろこさ〜ん」
ハルが助けを求めるように広子を呼びます。広子がやや慌てた様子でやってきてハルをしっかりと抱きしめます。
ここにきてやってわかります。ハルが発している沈鬱さは、ひとことで言ってしまえば喪失感から来るものだったのです。
ハルが学校から戻りますと広子さんが倒れています。ハルは横たわる広子さんにしがみついたまま名前を呼び続けます。
早く救急車をと思いますが、ハルにとってはそういうことではないんです。失うことの怖さがわーと広がっているんだと思います。
やや説明的に病院で昏睡状態の広子さんのシーンがあり、その後ハルが、瓦礫が山積みにされた地域をさまようシーンになります。一昨年の西日本豪雨の爪痕だと思います。
「なぜ何もかも奪ってしまうの!」
瓦礫に囲まれたその場所でハルが叫びます。それまでほとんど言葉を発していないハルの強い言葉に圧倒されます。
そのまま倒れてしまったハルを通りがかった男(三浦友和)が助けます。男は家に連れていきます。男はやや認知症の入った母親と暮らしており、ハルにご飯を食べさせます。なぜ倒れていたのか、どうしたいのかどころか名前さえ聞こうとしません。ハルは大槌から来たとぽつりともらします。
常識的には警察へ連絡ということなんですが、この映画に登場するハルのまわりの人々は皆とにかく優しいです。広子さんにしても、この男にしても、これから出会う人々にしても、とにかく皆優しく、その意味ではこの映画はファンタジーです。
ただこのファンタジーは、あるひとつの感情、喪失感からくる決して癒やされることのない悲しみを体現したハルを包み込むために現実的に必要なファンタジーです。
ハルが大槌から来たと答えた時、それまで茫漠としていたハルという人物、そしてまたその行動がはっきり見えてきます。おそらくハル自身もその時初めて大槌に戻る自分を自覚したのだと思います。映画はそのように語っています。
映画はロードムービーになります。ただ、映画はハル自身の明確な意志として大槌行きを描いているわけではありません。ヒッチハイクにしても、ハルを乗せる人々が導いてくれる感じに描かれています。
広島の男と別れたあと、妊婦の姉と弟(多分)と出会います。このシーンもハルはほとんど言葉を発しません。姉弟はとにかくご飯を食べようと食堂に入り、ふたりで喋りまくっているだけです。
これも意図して描かれていることだと思いますが、出会いのあとは必ず食べるシーンになります。広島の男(三浦友和)の台詞に「生きることは食べること」といったニュアンスの言葉がありますが、ハルのまわりの人々は皆それぞれ悲しみを抱えているにもかかわらずじっとこらえて生きているということの表現だと思います。
広島の男は理由はわかりませんが妻子は家を出ていったと語っていましたし、妊婦は結婚はしていないが子どもを産むと言っていました。
その妊婦さん、食堂で調子が悪くなり横にならせてもらいます。心配そうに見つめるハルに、あっ蹴ったよ、触ってみる?と声をかけます。妊婦のお腹を触った時、ハルに初めての笑顔が浮かびます。
そして、ふたりと別れたハルは森尾(西島秀俊)と出会います。その出会いにはよからぬ3人組に絡まれているところを偶然通りかかった森尾が助けるという、唯一優しくない人物たちが登場します。
助けたからといって森尾もそう優しいわけではありません。途中のどこかで降ろすからなとさほどハルのことを心配している素振りは見せません。どちらかといいますと他人のことを構う心の余裕はないという感じでもあります。しかし、互いにぼそぼそと自分のことを話すうちに様子が変化していきます。
森尾は震災の時、福島の原発で働いていたと言います。震災で妻と子を亡くし、今は車上生活をしていると言います。
もともと森尾が福島へ帰るつもりでいたのかどうかは(私が見落としたか)どうかはわかりませんが、ハルが大槌へ行こうとしていることを知り、自然に行動をともにすることになります。
こうしたことにまったく違和感を感じない映画です。
森尾がちょっと付き合ってくれと、あるところで停車し、店の中に入っていきます。トルコ料理店です。森尾は店主や客たちにこの人を知らないかとスマートフォンの写真を見せています。クルド人のその人は、自分が福島で被災した時にボランティアできてくれて知り合ったと言います。
客のひとりが知っている、でも彼は入国管理局に拘束されている、いつ出てこられるかもわからないと話し、その妻のもとに連れて行ってくれます。
ちょっと話はそれて現実の話になりますが、昨年暮れに、東日本入国管理センターに長期収容されているクルド人のデニズさんが、職員たちに集団暴行される衝撃的な映像が公開されています。一瞬にしてそのが頭に浮かびます。
クルド人の家族に招かれた森尾とハルはここでもクルド料理のご相伴にあずかります。どんなに理屈をこねても生きることとは食べること以上の真理はないということを強く感じます。
この映画全体はファンタジーですが、ハルその人には現実以上のリアリティがあります。そしてこのシーンは現実そのものです。
北海道新聞の記事によれば、
(クルドの人たちは)日本にも2千人ほどが暮らす。だがこの国では過去に1人も難民認定されていない▼映画に出演する44歳のアリさんもその1人。17歳で日本に来た。トルコに戻れば迫害されると出国を拒み、4年余り入管施設に入れられた▼一時的に収容を解かれているが、就労は禁じられ、移動は制限される。日本国籍の妻と結婚して11年。それでも在留が許されない。
とのこと、これが日本の現実です。
クルドの人々との別れ、ハルはこの映画2度目の笑顔を見せます。
福島に戻った森尾は父親と姉に久しぶりの対面、そして今は廃墟と化した自宅を訪ねます。ハルは枯れ草が風に揺れるその庭で両親、そして弟と戯れる幻影を見ます。
岩手県大槌町ハルの家の跡地、建物は跡形なく、土台のみが残り、枯れ草も力なく、まるで田んぼのように水が溜まっています。水たまりに足を入れることなど気にするでもなく、元あった家の中で、父を、母を、弟を探し求めるハル、どんなに叫んでも答えるものは誰もいません。
ちゃんと帰れよ。森尾が三陸鉄道の駅まで送ってくれます。
ホームには少年がひとり。「波板海岸はこっちでいいですか?」
ハル「どこへ行くの?」
「死んだ人と話ができる風の電話があるって聞いたんです。去年、お父さんが交通事故で死んで…」
「私も行っていい?」
このシーンまで、この映画が「風の電話」という映画であることをすっかり忘れていました。とてもうまいつくりだと思います。
ハルの旅は「風の電話」を目的とする旅ではありません。癒やしを求める旅ではありません。それまでずっと避けてきた現実を、あるいはおばも失うかもしれないという恐怖に突き動かされ、さまようようにしてやってきた8年前の現実、それをしっかり自分の目で見、対峙することで乗り越えるきっかけをつかみ、そしてやっと「風の電話」ボックスに入ることができ、父に、母に、弟に語りかけることでできたのだと思います。
この10分、15分の長回しの中にいるのは、俳優「モトーラ世理奈」ではなく、「ハル」その人です。