ラ・コシーナ/厨房

こんなレストランには行きたくないと思わせたらダメでしょう…

レストランの調理場を舞台にした映画で最近のものといえば「ボイリング・ポイント/沸騰」があります。全編ワンショットで撮られたせわしいノンコンセプト映画ですのであまりお勧めしませんが(ゴメン…)、この「ラ・コシーナ」はアーノルド・ウェスカーの『調理場』にインスピレーションを得てつくられたとのことですので楽しみです。それにルーニー・マーラさんが出ています。

ラ・コシーナ/厨房 / 監督:アロンソ・ルイスパラシオス

トランプアメリカの現実の前ではあまりにも空虚…

見終えての一言、意図が見え過ぎていてつまらない、です。

そもそもリアリズムではありませんので演出意図でシーンをつくっていくのはいいのですが、それが立ち過ぎますと見ていて疲れます。

映画の基本はメキシコ移民のアメリカ社会に対する異議申し立てです。それが、第三者的に見れば、とにかくブチ切れているとしか見えない描き方がされている映画です。ですので、あるいはメキシコ社会では拍手喝采で受け止められるのかも知れません(多分ない…)。でも、あくまでも第三者的に見ればですが、逆にあからさま過ぎて引いてしまうということです。

ですので、結論を言えば、日本的価値観社会が日常であれば、この映画を見て得られるものはないということです。

言い方を変えれば、今や新聞やテレビやネット情報で知るトランプアメリカの現実のほうがアメリカ社会の異常さを実感できるということです。

軸がなく、まとなりのない映画の悲しさ…

ニューヨーク、タイムズスクエアのレストラン「ザ・グリル」の厨房が舞台です。

びっくりするくらいの規模で、働いている人数に驚かされます。調理人もふた桁、字幕はウェイトレスとなっていましたがホールスタッフもふた桁という規模です。

まあただこの規模がうまく生かされているわけではなく、基本となるドラマの軸は、メキシコ移民のペドロ(ラウル・ブリオネス)とウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラ)の関係とレストランの売上800ドルが盗まれたという事件くらいで、あとはとにかくトラブル、トラブルでシーンがつくられており、その点では「ボイリング・ポイント/沸騰」に移民問題という社会性を加えただけの映画です。

映画は、メキシコからひとりの女性がザ・グリルの料理人ペドロを頼ってやってくるシーンから始まります。担当者の勘違い、と言いますか、いい加減さで人違いで雇われるわけですが、この件もその後なにか展開があるかと言いますと、ありません!!

そういう映画です。シーンごとに意味をもたせていますがそれが1本の映画としてまとまっていないということです。

経理担当者(かどうかわからない…)がレストランのオーナーに800ドルが盗まれたと報告します。これも映画的に大した意味のあることではなく、最後にオーナーの勘違いだったと言って終わっています。これが映画の軸となっているかと言いますと、なっていません!!

それに、これ、ツッコミどころかどうかはわかりませんが、最後にオーナーが勘違いだったと言い出すのっておかしいですよね。オーナーは担当者からどこどこのレジの金額が足りないと報告されてお金の入った袋を受け取るわけです。なのに、そのオチはオーナーが机の下に落ちていたことに気づかなかったって変ですね。

まあそういう映画だと思って笑って済ませましょう。

人物造形がしっかりしていないとつまらない…

まあ一応主役ということでペドロとジュリアのシーンはかなり多く、その破綻がラストシーンのカオスに結びついています。

ジュリアはペドロの子どもを身ごもっています。ジュリアは堕胎するつもりでいます。映画的には迷いがあるようには描かれていません。一方、ペドロは生んで欲しいと思っています。ただそれもまったく現実的なものではなく、3人でメキシコのリゾート地のようなところで暮らそうといった妄想にふけるだけで、現実は堕胎費用として800ドルをジュリアに渡しています。

つくり手の意図としてはこの800ドルを盗まれた金額と掛けているのかも知れませんが、一方でペドロがメキシコの母親に今月は仕送りできないと電話をするシーンを入れているわけですから、何をしたかったのかさえわかりません。

ペドロの善良さを見せたかったということなんでしょうか。とにかく映画がちぐはぐです。

結局、ジュリアは堕胎し、その影響で仕事中に倒れ、突然ジュリアの10歳くらいの子どもが呼ばれ、そのことを知らなかったペドロが狂って厨房を無茶苦茶にして映画は終わります。

え? 一体、この映画は何だったの? という映画です。

こんなレストラン、行きたくない…

たとえアメリカの現実社会を知らないにしても、不法滞在も含めた移民によってアメリカ社会が成り立っている(らしい…)ということは日々見聞きする情報で想像がつきます。ただ、その社会にいないと自分のこととして感じることは難しいです。

たとえば実際にこのザ・グリルというレストランがあったとして、考えられる自分の立ち位置はペドロやジュリアではなく、2、3シーンに映し出される客のひとりでしかなく、その視点で言えば、こんなレストランへは行きたくないということにつきます。

こうした傾向の映画でそう思わせてしまう映画はダメということです。

現実を見れば、日本でも多くの単純作業を海外からの労働力に頼っているわけです。率直に言って、実際にその姿を見ればそのときは大変だなあと思うにしても日々そのことをどうこうしようと考えているわけではありません。むしろより良いサービスを受けたいと思う自分がいるだけです。

何を言いたいかといいますと、この映画を見てペドロの立場に立つことは相当難しいということです。そう思わせる映画ではダメということです。

この映画は世界の縮図でもなんでもありません。ザ・グリルといういちレストランの話です。この映画から普遍性を導き出すことは無理です。

日本で劇場公開しなくてもいい映画です。