カルロス・ベルムト監督の恐ろしい才能と、そして恐ろしい結末と…
前々作「マジカル・ガール」のレビューの冒頭に「これだけ作り手の才能が感じられる映画はめずらしい」と書いたカルロス・ベルムト監督です。
んー、なんと言っていいか、かなり難しい映画です。でも、やはり才能は間違いないです。
ラスト30分で、えーーーー!
ラスト30分くらいまではフリアン(ナチョ・サンチェス)とディアナ(ゾーイ・ステイン)のラブストーリーのように進みます。
でも、なにか違います。ふたりが惹かれ合っているようには描かれますが、そこに会いたくてたまらないとか、愛であるとかを感じさせるものはありません。
逆にそこに漂っている空気は何かが起きそうな不穏さです。
その不穏さがラスト30分、えーーーー! となり、そして、そのまたラスト10分くらいで、え?! となる映画です。
考えてみれば物語構成の常道だった…
フリアンはクリーチャーが登場するホラーゲームのキャラクターデザイナーです。
冒頭、フォトショップで言えば 3Dブラシのようなタッチでスクリーンいっぱいにクリーチャーモデルが描かれていきます。カットが切り替わり、フリアンが VRゴーグルをして両手を空中にさまよわせています。ベースモデルですがクリーチャーが出来上がります。
かすかに「助けて!」の声が聞こえます。隣の部屋が火事です。フリアンはドアを蹴破り、消化器で火を消し、10歳くらいの男の子クリスチャンを助け出します。火事はボヤ程度ですみ、クリスチャンの母親が帰ってくるまでフリアンはクリスチャンを落ち着かせようとするかのようにあれこれ話しかけています。
ベルムト監督は細かいところにいろんな仕込みをする監督です。ここでのふたりの会話がラストに大きな意味を持つことになります。将来何になりたいかの話になり、フリアンが自分はトラになりたかったと話しますと、クリスチャンがトラは人間の顔を怖がるんだよと言い、だから頭の後ろに顔の仮面をつけるといいんだとも言います。
ただこの時点ではこのことが結末に絡んでくるなんてことはわかりません。実際、その後は母親も戻り、火事そのものが問題にされることもありませんし、映画の本筋もあたかもフリアンとディアナの恋愛物語であるかのように進みます。クリスチャンのことは後景に追いやられています。
しかし、考えてみれば、物語の発端をラストでオチをつけるというのは王道パターンですのであの結末も予測しておくべきでした。実際、その夜フリアンは息苦しさを感じ病院へ向かい、その場で失神しパニック障害と診断されています。
さらにその結末に向けての仕込みがいくつもあります。
フリアンは、たまたまレストランでクリスチャンと母親を見かけますが挨拶することなく、陰から覗き見るだけです。またある時にはクリスチャンのピアノの音が気になって仕事になりません。そしてある日、フリアンは唐突に引っ越していきます。クリスチャンの母親はクリスチャンがお礼のピアノを聞いてほしいと言っているので帰るまで待ってほしいと言いますが、フリアンは時間がないからと出ていってしまいます。さらにアパートメントのエントランスでクリスチャンとかち合いそうになり持っていた荷物で顔を隠して去っていくのです。
そうした直接的なことと並行して、早い段階からラスト30分のえーーーー! を導くための仕込みもあります。
ゲーム会社の企画会議です。責任者がフリアンのクリーチャーをほめ、次はそれに追われる人間たちだと言い、そのベースモデルの子どもの 3D画像を提示します。3Dモデルを持ち帰ったフリアンはクリスチャンのドローイング(自ら書いておいたものということでしょう…)を見ながらそのベースモデルに肉付けしていきます(具体的な描写はない…)。完成させた(と思われるだけで描写はない…)フリアンは VRゴーグルをつけソファーに腰を下ろします。
その後フリアンが何をしたかはこの映画の結末を知れば自ずとわかってきます。
ディアナは実は主題か、あるいは目くらましか…
カルロス・ベルムト監督は日本のアニメや漫画オタクと言われていますので、この映画でも私にはわからない仕込みがいろいろなされていると思われます。伊藤潤二の漫画を買いに行くとか、ディアナとふたりでやるゲームであるとか、服を脱いでいくゲームがどうこうとかもおそらくその類いでしょう。
ディアナの存在もかなり意味ありげです。出会いは型どおりで、ゲーム制作の仲間の女性の誕生日パーティーで紹介されます。しかし、二人の間に何かが走るような描き方はされていません。なのにこの後映画は二人の関係を追い続けるように進むのです。さらに混乱させるように、その日、フリアンは女性(誰かはわからなかった…)を自ら誘いベッドをともにしながら、行為ができない状態で終えるシーンを入れています。
これも結末を知った今ならわかります。クリスチャンのことが頭から離れなくなっているのです。
ディアナは寝たきりの父親の介護しています。こうした映画にしてはかなり意表をついた設定です。後にフリアンがディアナの家を訪ねた際にはディアナが父親に食事を与えている姿を覗き見るという思わせぶりなカットも入れています。
また、ディアナには付き合っている男性がいて、わざわざその相手との食事の場にフリアンを誘ったりします。その男はゲームやアニメや漫画を理解できないと滔々と自説を語り続けます。つまり、ディアナを否定していると見せているわけですから、ディアナが別れたがっているということだとは思います。でも、どういうわけか、このディアナの存在が最後までクリアになりません。
ラストもラストのワンシーンを見ますと、実はディアナこそが重要な存在と考えているのかも知れません。あるいは本筋を最後まで隠すための目くらましだったのかも知れません。
出会いの後は、フリアンがたまたま見かけたディアナの後をつけて家まで行ったり、すでに書いた男とのシーンやフリアンが寿司を持ってディアナの家を訪ねたりするシーンがあり、ディアナが、今日は父のことはヘルパーに頼んだので帰らなくてもいいと言い、フリアンのアパートメントに泊まるシーンがあります。
考えてみればこのシーンもかなり不思議なシーンです。これがラブストーリーであれば、即お互いに求め合うということになりますが、この映画では、お互いにベッドを譲り合い、結局フリアンがソファーで寝ることになり、しかしフリアンはなかなか寝付かれずにバルコニーに出てタバコを吸い、ベッドルームを覗いていますとディアナが来てと声をかけ、そしてやっとラブシーンになります。
しかし、この時、ディアナに電話が入り、ヘルパーから父親が亡くなったと告げられます。ディアナは帰ればよかったと言います。
その後も見せかけのラブストーリーが続きます。父親の葬儀の後、ディアナが母親と会いたくないと言い、父親との思い出の場所(だったか…)へ出掛け、その夜再びラブシーンとなります。しかし今度はフリアンがパニック障害を発症し、ディアナはその姿を見て、どうしたの? 怖い、と言ったりします。結局事情がわかり、ディアナの手助けで発作もおさまります。
これはラブストーリーじゃないことが宣言されたようなものです。
そして、第三幕が始まる…
フリアンがゲーム会社の担当者から呼び出しを受けます。
その担当者は、君の作った動画が SNS に流出している、会社の PC での作業はすべてモニタリングされていると告げます。外部ストレイジも? と返すフリアンに担当者はそうだと答えます。
フリアンが作業をするときに、2、3度 USBメモリーを取り出して PC に向かうシーンがあります。フリアンはゲーム会社から貸与された PCを使って自宅で作業をしています。そして個人的な作業をするときは USBメモリーに保存していたということです。
解雇されたフリアンはディアナに何度も電話をし、伝言も入れますが、何も返ってきません。またも寿司を買って自宅に押しかけます。硬い表情のディアナです。ディアナは SNS に流れている動画を見たと言います。フリアンは、あれは現実じゃないと言い訳します。しかしディアナはもう帰ってと突き放します。
これまで抑え込んでいた欲望をなぜ解き放とうとしたのかはわかりませんが、フリアンは母親が留守の時間を狙いクリスチャンの家を訪ねます。知らない人を入れたら怒られることはわかっているよ、でもお礼のピアノ演奏を聞かせてくれるんじゃなかったのかいと巧みに語りかけ鍵を開けさせます。部屋に入ったフリアンはココアを飲もうと言い、クリスチャンのカップに睡眠導入剤を入れて眠らせます。クリスチャンをベッドに運び、ふと目を上げますと、壁にはクリスチャンが書いたであろう、身体はトラで顔がフリアンの絵が貼られているのです。
フリアンはとっさに駆け出し窓から飛び降ります。
後日、病院です。鏡が床に立てかけられています。看護師が鏡に写ります。脊髄を損傷しているのでうつ伏せになっていると告げます。変わってディアナが写り、そしてベッドの下に寝転がりフリアンに笑顔を向けています。
さらに後日、寝たきりとなったフリアンをディアナが介護しています。
カルロス・ベルムト監督が性的暴行で告発されている…
フリアンは小児性愛者ということです。カルロス・ベルムト監督は、最後、クリスチャンの描いたマンティコアの絵をフリアンに見せることでかろうじてそれが現実のものとなることを防いでいます。
そこに明確な意図であるかどうかまではわかりませんが、ここに提示されているのは小児性愛がどうこうということよりも、仮想現実というものが現実に存在する社会になったということであり、仮に小児性愛者がいるとして、その人物の行為がバーチャルの世界だけのものであれば、実際、誰にもわからない秘められた行為であるわけです。
それが現実ということであり、小児性愛でないにしても、そうしたある種悪魔的な欲望のようなものが人間にあるのだろうかという問いでもあるのでしょう。
また、フリアンはそうした自らに芽生え始める欲望と戦う人物として描かれています。ディアナにとってはえらく迷惑な話ですが、ながーいディアナとの第二幕は自らの内面と戦い、成人女性に目を向けようと必死になっているフリアンとみることができます。
おそらくディアナに介護されるフリアンというラストカットは本当の意味での目くらましだと思います。
こうした様々のことはカルロス・ベルムト監督の明確な主張ということではなく、現代人の、特に男性が抱えざるを得なくなっている呼び覚まされた深層心理のようなもの描かれているのだと思います。
漫画やアニメやゲームについてはまったくの門外漢ではありますが、あれこれ漏れ聞こえてくる情報などを鑑みますと、それらのものにはリアルな人間が介在しないがために人間の持つ根源的な欲望、つまりは悪魔的なものが出やすくなっているのではないかと思います。
ところで、カルロス・ベルムト監督が3人の女性から性的暴行で告発されたとスペインの新聞 EL PAÍS が今年2024年1月27日の記事で報じています。
さらにこちらはネット記事のようですが、Spain in English というサイトが、2月27日の記事として、その3人とは別にさらに3人、6人の女性から告発されていると報じています。
ざっと読んだところでは、関係自体は否定しておらず、また暴力的なセックスをしていることも認めて合意があったと考えていると言っているようです。
読み間違いもありますので正確には上のリンクをお読みください。