フランケンシュタインは18歳の女性によって生み落とされた!
ハイファ・アル=マンスール監督といえば、サウジアラビア出身の監督で、前作の「少女は自転車にのって」がとてもいい印象の映画でした。もう5年前になります。公開当時、サウジアラビアには映画館がないという話があり、びっくりしたのですが、その後どうなっているんでしょう?
今年の6月まで女性の自動車運転が禁止されていたという国ですし、ジャーナリストのカショギさんが殺害された事件もありますし、実態が見えにくい国ではあります。
で、この映画ですが、私は、フランケンシュタインの物語が18歳(実際は20歳?)の女性によって、それも1800年代初頭に書かれたものだということを全く知りませんでした。その著者メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus)』を書き上げ、出版するまでの2,3年を描いた映画です。
ただこの映画は、決して「メアリーの総て」というタイトルでイメージされるような伝記的な物語ではなく、その作者であるにもかかわらず名を出すことを認められず、また夫であるパーシー・シェリーの作品として認知されたまま、あるいは歴史上抹殺されていたかもしれない「Mary Shelley」その人を、この映画の脚本家、プロデューサー、そして監督たちが、現代的視点で捉えなおそうという意図のもとに作り上げた映画なんだと思います。言い方を変えれば、歴史の中に覆い隠されていた「Mary Shellry」の意思を発見したということなのかも知れません。
やや大層な話から始めてしまいましたが、単純に映画的に考えてもこうした見方によって描かれる歴史ものというのもとても面白いもので、実際、この映画はとてもうまく出来ています。何をおいても物語の進め方のテンポがとてもいいですし、編集もスムーズで引っかるところがありません。これ、結構需要なことで、物語の進め方や編集が下手ですと見るものの思考の流れを断ち切ってしまいます。
基本的な物語は、おそらく事実として認定されている事柄なのでしょう。何しろ本人だけではなく、父にしろ母にしろ登場人物の多くがウィキペディアに出てくる人物ばかりです。
メアリー(エル・ファニング)は、母メアリー・ウルストンクラフトと父ウィリアム・ゴドウィンの間に生まれ、メアリー出産の際の何らかの病によって母は亡くなり、父の再婚により、母親違いの妹クレア(ベル・パウリー)と弟と暮らしています。
メアリーは著作家の父の影響もあるのでしょう、ひとりで考えごとをしたり、書きものをしたり、自分の意志を主張できる人物として登場します。妹クレアはそんなメアリーを慕って(かどうかよくわからない)、その後常にメアリーと行動をともにします。
メアリーは、ことあるごとに継母とぶつかります。それを危惧した父によって友人のもとに預けられます。そこでメアリーはすでに詩人として世に出ていたパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と運命的な出会いをします。一旦は父のもとに戻るメアリーですが、パーシーと駆け落ちします。メアリー17歳、パーシー22歳の時です。
パーシーは父親の庇護下にあったのでしょう、ひとたび勘当されれば、その日の生活にも困窮し、夜逃げ同然に住まいを引き払う際に、生まれたばかりの子どもを失うことになります。
この最初の子供の死が、メアリーの心に大きな傷を残し、「死」や「蘇生」といったイメージが後の「フランケンシュタイン」誕生へとつながっていきます。
そしてもうひとつ、メアリーを苦しめるのがパーシーの裏切りです。パーシーには妻と子どもがいることが判明します。
そうしたことを、パーシーは自由恋愛という言葉で表現しており、実際、シーンとしてはありませんが妹のクレアとも関係していたような描写もあります。メアリーに対しては、メアリーに好意を寄せる男性と関係を持ったらと勧めたりもします。
いずれにしても、出会った頃のかっこいいパーシーがどんどん(いわゆる)ダメ男化していいきます。
ただ、このあたり、確かにメアリーがパーシーを責めるシーンもあるにはあるのですが、たとえば、パーシーがメアリーに、君は自由恋愛を信奉していないのかとか、人の愛は変わっていくものだ(なんて言っていないけど(笑))みたいなことを言うのに対してさほど反論していません。
その後ふたりが結婚するという歴史的事実もあるのでしょうが、むしろパーシーに依存する女性ではなく、自立するメアリーという存在を映画は見せているのでないかと思います。
その後、妹のクレアも含めた三人はバイロン卿のもとに身を寄せます。この成り行きにはクレアがバイロン卿の子どもを宿しているという、つまりバイロン卿にとっては数多くいるうちのひとりの愛人ということらしいのですが、クレアが率先してということになっていました。
バイロン卿のもとでの暮らしは放蕩三昧の退廃的な印象で描かれています。バイロン卿は実際そうであったとの記述が多く、主治医のジョン・ポリドリ(ベン・ハーディ)とは同性愛の関係にあったと書かれているものもあります。ただ映画ではパーシーとの間がそうではないかというところもありましたし、そのジョンがメアリーに好意を持っている風な描写もありました。
ということで「ディオダディ荘の怪奇談義」です。
その年、長雨のために外出できず退屈を紛らわすためにバイロン卿が「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう」と言い出します。それを契機にメアリーが一年をかけて書き上げたのが『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』ということです。ちなみにバイロン卿はバンパイアに関する短い断片を詩集に収め(たらしい)、それをもとにジョン・ポリドリが『吸血鬼 The Vampyre』を書き上げたということです。
で、ここからが最もこの映画が描きたかったことだと思いますが、メアリーは書き上げた作品をまずパーシーに見せます。パーシーは素晴らしい作品だと言いつつ、次になんて言ったか忘れてしまいましたが、それに返して、メアリーは、「この怪物は私自身よ」と言い放ちます。つまり、怪物は自分を作ったフランケンシュタインを信じていたのに自分を捨てて去っていったことに重ねているということでしょう。
そして、メアリーは自力で出版元を探して訪ね回ります。しかし、若い娘の書いたものなど誰も読まないなどと断られ続け、やっと受け入れてくれた出版元にしても、パーシーの序文があればとの条件付きで、さらに匿名ならということです。つまり、女性が著者では売れないと考えられ、パーシーが匿名で出版したと思わせようとしたということでしょう。
出版された『フランケンシュタイン』は評判になります。そこに自分への献辞をみた父ウィリアム・ゴドウィンは、パーシーを招き出版記念の会を開きます。スピーチに立ったパーシーは、この作品が自分のものだと思う人も多いだろうが、実はこれはメアリーの作品なのだと語り、その場に来たメアリー(父から招かれていたんだったかな?)と眼と眼を合わせて映画は終わります。
第二版の出版には、著者として「Mary Shelley」の名前が入ったそうです。
この映画のいいところはバランスが取れていることです。私が特に強調して書いている覆い隠された歴史上の「女性の意識」が特別突出しているわけではなく、美術や衣装など歴史ものとしての風格もありますし、上に書きましたように物語の進め方もそつがありません。
エル・ファニングのキャスティングもうまくはまっています。その容貌から乙女チックな幼さを感じさせますが、どちらかといいますと現代的な顔立ちでもあり、17,8歳の年齢にありがちな身勝手さを感じさせつつ、終盤にきっちりと自分自身を主張するところも生きています。
ハイファ・アル=マンスール監督、サウジアラビア出身ではありますが、経歴を見ればほぼ欧米的価値観でその意識を育んできたのではないかと想像します。ですので、映画自体がサウジアラビアの社会と結びついているわけではないでしょうが、それでもいたるところに束縛された女性観というものがにじみ出ており、仮にそれだけが前面に出ていれば映画はつまらないものになりますが、「少女は自転車にのって」で証明されたバランスのよい構成力と演出力がこの映画でも発揮されています。
願わくば、メアリーの執筆のあたりをもう少し深く描いてほしかったとは思います。
それにしても、この物語の豪華な顔ぶれ、メアリー・ウルストンクラフト、ウィリアム・ゴドウィン、パーシー・ビッシュ・シェリー、ジョージ・ゴードン・バイロン、もっともっと知りたくなります。