メモリーズ・オブ・サマー

12歳のピョトレックくんには大人の世界は不可解なはずだが…

この映画、見たときの体調が悪かったのか、ほとんど何も感じられず書かずに終わってしまうかと思っていたものを、記録程度にと書き始めましたら、やはりいいことは書けずに終わってしまいました。念の為。

メモリーズ・オブ・サマー

メモリーズ・オブ・サマー / 監督:アダム・グジンスキ

アダム・グジンスキ監督は1970年生まれのポーランドの監督です。現在50歳くらいということになります。この映画が長編二作目、2016年の作品です。

映画の時代背景は1970年代末、12歳の少年ピョトレックくんの話です。年代的に自伝映画なのかなと思いましたら、本人のインタビューを読みますとそうでもないようです。

自伝映画とすれば、ピョトレックくんの心の揺れとか感情の発露みたいなものがあまり感じられず、全体としてあっさりした印象でしたので気になったということなんですが、もし自伝でないとすれば、なぜこの物語をわざわざ40年くらい昔の時代設定にしたのでしょう。

OUTSIDE IN TOKYO / アダム・グジンスキ『メモリーズ・オブ・サマー』インタヴュー

このインタビューによりますとこういうことじゃないかと思います。

まずプロットとして、12歳の少年が大人の不可解に見える行為(母の不倫)から自身の世界の崩壊に近い恐怖を感じるというものがあり、その母の不倫を可能にするためは夫の長期不在が必要であり、経済危機により男たちが遠くイラクやソ連へ出稼ぎに出ていた1980年ごろが最適と判断したということです。もちろん、その決定のベースには監督自身の幼い頃への郷愁があったのだとは思います。

さらに、上のインタビュー記事を読みますと、グジンスキ監督の考え方がよくわかります。シナリオも監督自身ですので当然そうなるかとは思いますが、計算された構成ありきの監督のようです。

上に、ピョトレックくんの心揺れとか感情の発露が感じられないと書きましたが、この映画、視点がかなり冷めている感じがします。

インタビュー記事を探すためにいくつかのレビューを読むことになったんですが、意外にも、ピョトレックくんの心情を思いやるような叙情的なものが多いです。むしろ私は、かなり引いたところから淡々と描かれている映画だなあと感じます。全体の印象としては平板です。

ピョトレックくん、12歳の少年にしては相当母親への依存度が強い少年として描かれています。母親と二人で秘密(的な)の池に泳ぎに行ったり、自転車で一緒に汽車と並走したり、夜は二人でチェスをしたりするシーンが続きます。描き方としては青春映画の恋人同士のようです。

湖畔でひとり日光浴?をしているシーンでは、同年代の子が話しかけてきたのになぜだかすっぽかして置き去りにしてしまうということもしています。引っ込み思案で他人と話すのが苦手というわけでもなさそうですし、単にいたずらということは映画的には考えられませんし、友だちと遊んだりすることより母親と一緒にいたいということの表現ということもあり得ますが、それならそもそも一人で日光浴に来ることもないと思われます。

なにか見落としていないとすれば、インタビューにもありますように、溺れたのは相手の少年かもしれないと罪悪感を抱かせる、というよりも見ているものに不安感を抱かせるという計算ということになります。

隣にやってくるマイカという少女のエピソードも、ピョトレックくんと母親との関係にもう一つ絡み合ってきません。母親の気持ちが不倫相手に動いていくことと並行して描かれていくわけですから、意図としては、心の隙間、やるせなさみたいなものを埋めるものとしてマイカとの関係が描かれているんでしょうが、たとえば、母親と泳ぎに行っていた池でのマイカとのシーンも、画としては同じようなカットで撮られたりしていても、ピョトレックくんの心の動きが見えません。本当は母親と一緒に来たかったと思っているのか、マイカに異性を感じつつ母親離れしていく過程なのか、そうしたピョトレックくんの心情を見ようとする意志が画に感じられません。

母親の外出のたびにピョトレックくんが不安を感じることは割と丁寧に描かれています。ただ、丁寧ではあってもその不安が増殖していくようには感じられません。母親はエスカレートしていきますが、ピョトレックくんは同じような不安が繰り返されるという感じです。

父親にどう対するかは、12歳の子どもにあっては相当精神的に負担の大きいことだと思いますが、その割にはあっさり白状していました。父親に話してしまえばすべてが崩壊してしまうかもしれないという恐れ、逆に、話せばあるいは母親が戻ってくるかも知れないという期待感、そうした相反する気持ちの交錯を期待しますが、そこにこだわりはなさそうです。演技では難しいとしても映画そのものとしては表現できないことではないでしょう。

結局、映画の展開としては大人は大人の対応、あとはピョトレックくんがどうするかですが、ラストも、あれですと、ピョトレックくんは母親に抵抗しているだけで、幼いまま一歩も大人に近づいていないように見えてしまいます。

ピョトレックくんには大人は不可解であっても、映画が見せる大人たちは極めてわかりやすく描かれています。12歳の少年の視点ではなく、俯瞰した大人の視点なんだろうと思います。

映画の構成としては、冒頭にそのラストシーンの一部を見せて一体どうなるのか? と不安とともに興味をもたせるということなんでしょうが、ピョトレックくんが踏切の中で立ち止まりそこに汽車がやってくるとすれば、轢かれるか、前を通り過ぎるか、母親が飛び込んで身代わりになるかくらいしか結末はありません。この手法でいけば普通は誰も犠牲ならない二つ目しかないです。

と、書いてはみたものの、本当にそうだったのかなあとやや不安になりつつ、でもやはり、こんな風に見せてやろうという意図が見え隠れはしていますが、やや情感が足りなく感じられる映画ではありました。

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