トランスジェンダーはミッドナイトに生きる存在ではない
悲劇物語で涙を流させることは簡単ですが、いつまでもこうした昭和的ステレオタイプな手法に頼っていていいのかなあとは思います。ドラマパターンは昭和で言えば「日陰の女」です。
もちろん感動すること、あるいは感動できることはいいことですが、その感動がどこから来るのか、何に感動しているのか、その感動によって自分の何が変わるのかといったことを時には考えたいものです。
あらすじ
トランスジェンダー(性別違和)の凪沙(草彅剛)が、母親のDVにあっている中学生の一果(服部樹咲)を預かることになり、当初は煩わしく思っていたものの、一果がバレエの道に打ち込み始め少しずつ変わり始めたことを契機に凪沙の思いも変わり一果を(多分)娘のように感じ始めます。
それぞれ生きることに充実感を見出したふたりですが、ある日、ふたりの前に一果の母親が現れ一果は母親のもとに去ってしまいます。
凪沙は一果を取り戻すために性別適合手術を受け一果を迎えに行きます。しかし家族や一果の母親からはバケモノと罵られ願いは果たせません。
中学を卒業した一果は凪沙のもとに向かいます。しかし凪沙は手術の後遺症(合併症?)で視力を失い寝たきりになっています。凪沙は一果に海につれてってと頼みふたりで海に向かいます。
凪沙は、一果に踊ってみせてと言い、海辺で踊る一果を見ながら息絶えます。
そして後日、一果は凪沙の遺品である赤いハイヒールとトレンチコートを身に着けてコンクール会場に向かい、「オデットのヴァリエーション」を踊ります。
という物語で各所に泣かせどころが仕込まれています。
一果(服部樹咲)
批判的なことを書く前にとてもよかったことを書いておきますと、一果をやっている服部樹咲さん、オーディションで選ばれた新人とのことですが、バレエのキャリアが効いていることもありとても良かったです。
バレエシーンもすべて吹き替えなしというのは映画の出来に大きく影響しています。この服部さんがいなければ映画がどうなっていたかわからないくらい映画を支えています。
現在14歳です。役柄が同年代の心を閉ざした少女ということですので演技自体は比較的やりやすかったのではないかと思います。すでにマネージメント事務所と契約したようですので俳優としてどう成長していくのか楽しみです。
りん(上野鈴華)
そしてもうひとり、バレエスタジオの先輩にあたるりんを演じている上野鈴華さん、こちらはしっかりした演技をしています。出番は前半で終わってしまいますが、思い返してみればかなり重要な役どころでした。
この映画、「白鳥の湖」を下敷きにしていることはすぐに分かりますが、一果がコンクールの舞台で踊り、また同時にりんが両親のパーティーで踊るシーンがあります。そのバレエが何だったのかわからなかったんですが、「アルレキナーダ」から「コロンビーヌのヴァリエーション」らしいです。
上のリンク先によれば、物語自体はコロンビーヌとアルルカン(道化の意味らしい)という恋人たちをめぐるファンタジックなものなんですが、ふたりはコロンビーヌの父親に結婚を反対されており、アルルカンが父親の召使いピエロに窓から突き落とされる場面があるそうです。
なるほどね、そういうことですか。
りんの家庭はバブル系の金持ちで、りんはそうした両親に内心反感を持っており小遣いに困っているわけでもないのにかなり怪しい撮影モデルをやっています。
一果が、おそらく子どもの頃に習っていたのでしょう、興味深げにスタジオを覗いているところを先生に声をかけられ通い始めますとりんの方から一果に近づき親しくなります。一果を家に招いて洋服をあげるよと言ってみたり、一果にお金がないと知り、撮影モデルのアルバイトに誘ったりします。怪しいアルバイトなんですがおそらく親しくなりたいことが一番なんだろうとは思います。
りんはスタジオで一番期待された生徒でしたが、一果にバレエの才能があると見た先生が一果に期待をかけるようになり、その嫉妬心(もうちょっと複雑)から最初は絶対やっちゃだめだよと言っていた個別撮影をやってみなさいと勧めます。
友人だったのが嫉妬心からいじめに回るパターンかと思いましたら、ここはそんなステレオタイプな運びではなく(笑)、個別撮影から逃げ出した一果をりんが割って入って守り、両親にはバレるわ凪沙まで警察に呼び出されるわの大事になります。
単なる嫉妬心ではなく、その後はっきりしてくる一果に対するりんの屈折した好意の表現でした。
コンクールを前にしてりんはケガをし出場できなくなります。そして、りんと一果ふたりのシーン、このシーンがとてもいいんです。上野さんがうまいんです。
ふたりがくっつくようにどこかのベンチか何かそんなようなものに座っています。りんがいくつか愚痴のようなこと(だったと思う)を言います。そのたびに一果がううんと首を振ります。りんがキスしていい? と尋ね、一果がうんと答えます。りんが一果を慈しむように2度3度とキスをします。
りんの一果への思いは複雑で、そこには友情だけではないセクシュアリティも感じさせています。
そしてコンクールの日、一果が舞台で、りんは家の屋上で行われているパーティー(誰かの結婚式?)で「コロンビーヌのヴァリエーション」を踊ります。そして、りんはバレエジャンプをし屋上から飛び出していきます。
りんのシーンはこれで終わります。一果がコンクールの客席にりんの亡霊を見るカットがありますのでおそらく死を意味しているのでしょう。
ということで、批判的なことを書くつもりで始めたものが随分好意的な内容で長くなってしまいました(笑)。
私も泣いたが…
りんと一果のバレエが何かを調べている間にこの映画の感想のような記事をいくつか読むことになったのですが、感動の嵐です。確かに感動はします。そのようにつくられているわけですから当然ですし、長い間蓄積されてきた日本の文化というものもありますからそこで生きてくればこうした物語を見れば涙も流れます。私も泣きました。
ただ泣きながらも、ああ泣かされているなあとも思います。
いくつか記事を読む中に「感動ポルノ」という表現がありました。もともと障害者を過度に感動的に扱ってそのことで健常者が満足感を得ていく「感動消費」ということを指す言葉で、日本では「24時間テレビ」が象徴的にその批判の対象となっています。
なぜ凪沙を殺すのか?
この映画もその傾向が強いです。凪沙を社会から虐げられた日陰に生きる人物として描き、見るものに涙を流させようとしています。
この物語を考える上の発端でありベースとなっているのはトランスジェンダーを描くことではなくバレエの持つ悲劇的要素の方ではないかと思います。トランスジェンダーは後付で他の設定でも原作、シナリオ、監督の意図は成り立つのではないかと想像します。
上に書きました「アルレキナーダ」の結末はハッピーエンドなんですが、そこから許されざる愛と死(実はアルルカンは死んでいない)だけを取り出しています。
メインのバレエとなっている「白鳥の湖」からは、白鳥に変えられてしまったオデットが夜だけ人間に戻ることができることを凪沙に重ねているとの見方があるようですが、もしそうだとすれば、それはどうよと思います。凪沙を「日陰の女」的存在に追いやることです。本来夜にショーパブで働くことは職業として扱うべきで、これじゃあまるで昼間は凪沙が身を潜めて生きているようです。
ラストの海辺のシーンで凪沙が死んだ後に一果が海に駆け込んでいくことも王子とオデットの悲劇的な最後からのものでしょう。
一果にそこまでさせるのであれば母親のもとに帰らせてはいけません。悲劇をつくるためのドラマ運びということになってしまいます。
それに性別違和を持つことは、もちろんその状態自体は本人が望まないことではあるにしても、誰かの意思でもたらされたことではないでしょう。そのこと自体が悲劇を生むのではありません。我々の価値観が悲劇を生み出すのです。この映画は凪沙を悲劇的に扱うことで性別違和を持つ人のイメージを固定化する危険があります。
もちろん、性別違和を持つ人にこの映画の凪沙のような人がいるいないを言っているわけではありません。いるかも知れませんし、いないかも知れません。当然ながら性別違和を持つ人もそれぞれで、トランスジェンダーとしてひと括りにできるわけでもありませんし、マイノリティとして画一的に扱われるべきではありません。
この映画は悲劇を生み出す社会を描いていません。悲劇は描いていてもその悲劇が我々の社会に跳ね返ってきません。わざわざ凪沙の胸をはだけさせ、母親に泣きじゃくらせ、一果の母親にバケモノと言わせてもそれは社会ではありません。
なぜ凪沙を殺すのか?
一番の理由は昭和のドラマパターンから抜け出せていないからだと思いますが、LGBTQという言葉が大手メディアでも取り上げられる今こそ、単に泣かせようとする悲劇物語ではない新たな物語を創造してほしいと思います。
海外ではこんな映画もあります。
なぜ凪沙に性別適合手術を受けさせたのか?
凪沙は一果が母親のもとに去ったためにそれまで悩んできた性別適合手術を受けます。つまり、身体的に女性にならなければ一果を取り戻すことはできないと考えたことになります。
凪沙はなぜこう考えたんでしょう? というより、内田英治監督はこの時の凪沙の心情をどう組み立てたんでしょう?
凪沙は一果が離れていったのは自分に男性器があるからだとでも思ったのでしょうか。女性の身体を持てば一果に対して母親の立場に立てるとでも考えたんでしょうか。
そもそも映画の中では一果が母親をどう思っているのか、なぜ母親のもとに戻ったのかは描かれていませんので、あえて想像すれば、産みの母と子どものつながりは何よりも強いという価値観で物語がつくられているのだと思います。
映画は理屈じゃありませんが、これですとシスジェンダーの女性でも一果は取り戻せません。凪沙は性別適合手術を受けようが受けまいが産みの母にはなれません。
それでもなお凪沙が女性の身体を得ることで一果と強く繋がりたいと考えたということであれば、それは凪沙には絶望感しかなく、結局のところ悲劇物語にするためにつくられた物語でしかなくなるということです。
何が言いたいかといいますと、性別違和(MtFの場合)と子どもを育てたいという欲求、それを母性というのであれば母性としておきますが、性別違和から女性の身体を求めることと母性は別物ではないかということです。
映画的にもかなり唐突な凪沙が血の滲んだおむつをして横たわっているシーンもそうですが、凪沙を殺すための性別適合手術というのはちょっとまずいのではないかと思います。
「ナチュラルウーマン」や「わたしはロランス」であれば、即座に凪沙は一果を取り戻しに行ったでしょう。