誰もが誰かを求めている、神父でさえも…
アラン・ギロディ監督特集上映の3作のうち、先日見た「ノーバディーズ・ヒーロー」がことのほか面白かったので「ミゼリコルディア」も見てみました。こちらのほうが直近の作品で昨年2024年のカンヌ国際映画祭プレミア部門で上映され、また、カイエ・デュ・シネマ誌ではその年のベストテン第1位に選ばれているそうです。

全編に漂う奇妙なエロティシズム…
「ノーバディーズ・ヒーロー」で一番感じたことはその映画を一般常識で理解しようとしても無理ということだったんですが、この「ミゼリコルディア」もまったく同じで、どう展開していくのかまったく読めません。
アラン・ギロディ監督は本当に奇妙な映画を撮ります。
この映画、一応、というのも変ですが殺人事件も起きますし、それに対して警察の捜査も始まります。でもミステリーでもありませんしサスペンスにもなりません。これがその手の映画なら30分もあれば一件落着で終わってしまいます。事件はその程度の内容なのに奇妙なことに映画としては100分間飽きさせずに持っちゃうんですね。
この映画には全編通してなんともいえない奇妙なエロティシズムが漂っています。おそらくそれが100分持たせる一番の要素なんだろうと思いますが、その奇妙さに麻痺させられたころ、映画はさらに予想もつかないエンディングへと突入していきます。
舞台は南フランスの片田舎の村です。
冒頭のシーンはその村に向かう曲がりくねった田舎道を走る車のフロントガラス越しの画で始まります。音楽は入っていたように思いますが、何かが起きるわけでもなく、ただただ走り続けるドラバー目線の画が続くだけです。とても長いです。意味なく長いわけですから大きな意味があるということで、片田舎を感じさせたいのかもしれませんし、はるばる来たという距離感の演出かもしれませんし、軽い不穏さを感じさせるためかもしれません。
冒頭からすでに奇妙です(笑)。
誰もが誰かを求めている…
運転していたはジェレミー(フェリックス・キシル)、かつて働いていたパン屋の主の葬儀のために故郷の村に戻ってきたのです。30代半ばくらいかと思う好青年の印象です。
夫を失くし未亡人となったマルティーヌ(カトリーヌ・フロ)はジェレミーを温かく迎えます。そして一晩泊まっていいかというジェレミーに好きなだけいなさいと言い、今は結婚して家を出ている息子ヴァンサンの部屋を与え、亡き夫の服やパジャマを着せ、そしてくつろいだ会話の中で何気なくあなたは本当にあの人のことが好きだったねと単に師弟関係ではない同性愛的な意味合いを込めて言うのです。
奇妙です(笑)。
ヴァンサン(ジャン=バティスト・デュラン)がやってきます。苛立っています。理由はジェレミーが自分の母マルティーヌに言い寄ろうとしている、字幕はもっとはっきり寝ようとしているだったかもしれませんが、そう疑っているのです。
しかし、ジェレミーはといえば、どうやら近所のワルター(ダビッド・アヤラ)に気があるらしく、早々に家を訪ねています。ワルターの見かけはあまりよくありません。清潔感とは程遠く、たるんだ肉に肌着をだらしなく身につけています。後日、ジェレミーはそうしたワルターに、そのワルター(が留守だったかな…)の下着を身につけて迫っています。ワルターにはその気はなさそうなんですが、事も無げに俺と寝ようとしたのかと言う程度で、あるいはタイミングによってはと思わせる感じなんです。
これまた奇妙です(笑)。
こうした人間関係が、それこそ事も無げに描かれていく映画です。性的な欲望というよりも誰もが誰かを求めているという感じです。実際に行動するのはジェレミーですが、マルティーヌにしても、ヴァンサンにしても、ワルターにしても、何もしないにもかかわらずそんな雰囲気を持っているのです。
そのように描かれているということです。
神父もまた誰かを求めている…
事件が起きます。
ヴァンサンがジェレミーに敵意をもって突っかかるシーンは何度か描かれており、ついには森の中での取っ組み合いとなり、ジェレミーが倒れ込んだヴァンサンの後頭部に岩を打ちつけて殺してしまいます。
この取っ組み合いのシーンには細かく振りがつけられていると思われ、まるでじゃれ合っているような動きになっています。これについてアラン・ギロディ監督はインタビューで喧嘩とセックスは似ているみたいなことを言っています。
独特ですね(笑)。
そうしたこともあるのかジェレミーの殺意もあまり感じられないまま、言い方を変えれば冷静にことは進み、ヴァンサンを地中に埋めて何食わぬ顔でマルティーヌのもとに戻ります。
そして映画後半、キーポイントは神父となります。
神父は映画当初からちょくちょく顔を出す存在でこれはなにかあるなと思って見ていたんですが、終盤はこの神父の映画といってもいいくらいです。そもそもタイトルとなっている「ミゼリコルディア(Miséricorde)」はラテン語では Misericordia となり「慈悲」という意味の宗教的な意味合いの強い言葉です。ギロディ監督としても神父の存在に重きを置いているというのは間違いないでしょう。
ジェレミーが森へ入るのはキノコ採りが目的なんですが、そこでも神父と出会っています。神父でさえ誰もが誰かを求めている存在ということです。神父がヴァンサン殺害の一部始終を見ていたとしても不思議ではありません。ただ、仮にそうだとして神父が見ていたのはジェレミーではなくヴァンサンの方だったのかもしれません。
マルティーヌが捜索願いを出したのでしょうか、警察の捜査が始まります。森の捜索となり加わったジェレミーはヴァンサンを埋めた場所からきのこが生えていることに気づき慌てて抜き取ります。その場所に注意を引きたくないということなのか、そのきのこが何らかの死体の暗喩なのか、その慌て具合は他のシーンでは見られないものでした。
警官ふたりは明らかにジェレミーが何か隠していると疑い、次第に問い掛けも厳しくなっていきます。その度ごとにジェレミーは適当な言い逃れで難を逃れます。そして、もう誰もが、マルティーヌさえも、ヴァンサンの妻(後半に登場…)さえも、ジェレミーがなにか知っているに違いないと思い始めたころ、神父がジェレミーに告解したいと言い出すのです。
告解は信者が神父を通して神に許しを請うものですが、その神父が告解したいと言い出すわけです。まったくもって奇妙な展開ですが、神父はジェレミーに君ならできると言って告解室の神父側に押し込め、自らは信者側に入りおもむろに語り始めます。このシーン、この映画の中でも出色のシーンだと思います。しかし、集中して見過ぎていたためにほとんど記憶していません(笑)。神父はジェレミーのヴァンサン殺害の経緯をすべて知っており、さらにその死体を掘り起こすことを承諾させたということだったと思います。
誰もが誰かに欲情する…
深夜の森です。
ジェレミーと神父はヴァンサンを埋めたあたりを掘り起こします。泥にまみれ、なかば腐ちかけたヴァンサンの姿が顕になります。なんと! 神父がヴァンサンの頬を優しく愛撫しながら熱い眼差しを向けるのです。その様子をじっと見つめるジェレミーです。
ヴァンサンの死体を教会の墓地に埋葬した神父は、ジェレミーに服を脱げと指示し、自らも裸になりふたりでベッドに入ります。そこへ警官がやってきます。追い返す神父の性器は半勃ち状態です。
神父はジェレミーに欲情していたのでしょうか。
まだあります。マルティーヌが寝間着のままジェレミーを迎えに来ます。マルティーヌはジェレミーを連れて帰り、そして添い寝するのです。
マルティーヌも誰かを求めている。しかしそれがいかなる欲情なのかはわかりません。
という、誰もが誰かを求めている、あるいは誰もが誰かに欲情しているという映画です。こんな映画、アラン・ギロディ監督以外に撮れる人はいないでしょう。
アラン・ギロディ監督はインタビューでこんなことも語っていました。自分は労働者階級出身で農夫たちの中で育っており、年上の男性や大柄で粗野な男に魅力を感じるとのことです。この映画で言えばワルターのような男ということだと思いますし、マルティーヌがテレビで見ていた相撲もそうした意味合いからの選択でしょう。
結局この映画は、おそらく性というものにまとわりつく不道徳さを無力化しようとした寓話なんだろうと思います。
実はこの映画を見たのはもう1週間ほど前で、あきれ返って書くのも面倒になり今になってしまいました(笑)。それに残りの1作「湖の見知らぬ男」も見ようと思っていたのがもう上映終了になっていました(涙)。