ミスコン擁護にも見えるが…
男性がミスコンに出るという話であれば、切り口としてはトランスジェンダーかなと思っていましたがそうではなく、主人公の性自認は映画の主題にはあまり関係がないようで、単純に子どもの頃の夢を叶えた男の子という映画…なのかな?
ミスコンを相対化し得たか?
この時代、ミスコンをなんの疑問も持たずに描くことは考えられないことですので、この映画の発想は、じゃあ男が出たらどうなるのか? こういうことでしょうか。
ルーベン・アウヴェス監督のインタビューがありました。
ミスコンは、極端なほどに規定がある世界です。(略)そういった世界に男性を紛れ込ませることは、ある種、その美の規範を批判することでもありました。(ルーベン・アウヴェス監督インタビュー | MOVIE Collection [ムビコレ])
やはり発想はそういうことだったようですが、どうなんでしょう、「美の規範」を批判的に描いているかどうかには疑問が感じられます。
アレックスはその「美の規範」に自分を押し込めることで自信を持っていくわけですし、最後にファイナルのステージでカミングアウトすることにもアレックスにとって必然性は感じられなく、単に映画的なエンディング処理にしかみえません。
それにミスコンがルッキズム批判されるのは、その「美の規範」によって人を評価する側、つまりミスコンを行ったり、それを見て「美の規範」を内在化する我々の問題であって、ミスコンを目指す個人の問題ではありません。
いずれにしても、この映画、そうしたミスコンをめぐるあれこれの映画ではなく、むしろ同じインタビューでアウヴェス監督が語っている
ミスコン(ミス・コンテスト)という馴染みのあるイベントを通して、私は「本当の自分を見つける」という普遍的なテーマを深めたいと思ったのです。
ということだと思います。
ファイナルステージでアレックスが語りかけているのは、亡くなった両親であり、過去の自分であって、けっして「美の規範」を批判しているわけではありません。それに、その後アレックスが戻っていくところも最も自分がやすらぎを得られる日常であり、疑似家族のアパルトマンやボクシングジムです。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
基本的にはコメディです。
主人公のアレックスはいたって真面目で笑いを取るようなところはありませんが、アレックスのまわりの人物やその人物配置はコメディパターンです。ですので全体として人物を深く描くところはありませんし、各シーン各シーン、パターン化された展開で進みます。
アレックス9歳、大人になったら何になりたいと聞かれて「ミス・フランスになりたい」と答えます。まわりには笑い声が聞こえます。
青年になったアレックス(アレクサンドル・ヴェテール)はパリの下宿宿(アパルトマン)に住みボクシングジムで働いています。下宿宿には家主のヨランダ、男娼(詳細不明)のローラ、そしてアフリカ系、アラブ系、インド系の下宿人がいます。
ボクシングジムにオリンピックチャンピオン(代表?)のエリアス・ナイムがやってきます。幼馴染なのか(説明されない)ふたりで語り合い、アレックスはエイリアス・ナイムに夢を叶えているのねと羨望のまなざしを向け、自分も一念発起ミス・フランスになる夢を叶えようとします。
アレックスは下宿屋のみんなに相談します。こういうシーンはパターン化されたコメディです。家主のヨランダは否定的ですが内心では応援しているというパターンです。男娼のローラはアレックスの防波堤です。多民族の仲間たちはそれに茶々を入れる役割です。
アレックスはミス・フランスに挑戦することにします。
このあたりはとんとんとんと進み、アレックスはイル・ド・フランス大会で代表に選ばれます。
ミスコンのディレクター、アマンダが登場します。各地区から選ばれてきたミスをトレーニングします。
そう言えば、ミスコンが今のように批判的に見られていない頃、この映画と同じようにミス日本の候補者をトレーニングするためにフランス(だったかな?)からディレクターが来て云々というテレビの特集番組を見た記憶があります。おそらく、恥ずかしながら私もそれを喜んで見ていたんでしょう(涙)。
この映画、「本物のミス・フランス実行委員会と提携(公式サイト)」しているとのことで、ここからのながーいミス・フランス候補者たちのトレーニングシーンはそのアピールシーンでしょう。
しょうもない退屈なシーンの連続ですが、ミス・フランス候補者たちをベルギー(なぜ?)に連れていき、海岸のゴミ拾いをさせたり、ゴミ処理場をバックに撮影したりとどういう意図かは図りかねますが、似非エコロジー大作戦を意図的に見せていました。
で、いよいよファイナルステージです。映画ですから当然アレックスに挫折があります。この映画では、アレックスがいわゆる天狗(というほどではないが)になっちゃいます。ローラを侮辱し、アレックス自身にも迷いが生まれます。
ただ、最初に書きましたようにこの映画、人物を深く描くような映画ではありませんのでアレックスが何に悩んでいるのかははっきりしません。映画をクライマックスへ持っていくために一旦落とす一般的な手法でしょう。
悩むアレックスに家主のヨランダが自分の過去を告白しファイナルステージに出場するよう説得します。そして、ヨランダは倒れます(は?)。
ファイナルステージはすでに始まっています。しかし、アレックスはヨランダの看病から動こうとはしません。仲間たちが行くべきと促します。アレックスはファイナルステージへの出場を決心し駆けつけます。
そしてミス・フランスのファイナルステージです。いろいろ華やかなショーがあり、テレビの中継もあります。下宿の仲間たちやボクシングジムの仲間たち(かな?)、そしてボクサーのエリアス・ナイムも恋人と一緒にテレビを見ています。
いよいよ決勝進出の6人が選ばれます。しかし、5人目までアレックスは呼ばれません。かなりベタですが、アレックスが6人目に呼ばれます。
決勝です。決勝はインタビューによるトークです。アレックスは言葉に詰まっています。そしてやっと開いた口からは、亡くなった両親への感謝の言葉が語られ、そしてアレックスは衣装を脱ぎ始めます。
会場からはブーイング、しかしそれは次第に拍手に変わります。上半身裸のアレックスが退場していきます。
ボクシングジム、アレックスは下宿屋やボクシングジムの仲間たち、そしてミス・フランス候補の仲間たちに迎えられ、ヨランダから(だったかな?)ティアラを頭につけてもらいます。
終わり。
ミスコンで本当の自分を見つけるとは…
どういうことなんでしょう?
アレックスの中に「女性的なるもの」があるとして、それがミスコンに結びつくというのはどういうことなんでしょう? あの「美の規範」に自分を閉じ込めて、それを他者から認められることで本当の自分は見つけることが出来るのでしょうか?
批判ではありません。本当にわからないだけです。
「美の規範」とは社会的に規定されたものですので、それに魅力(ちょっと違う)を感じそれに自分を当てはめることは女性的なるものとも言えないような気もしますし、ああ、難しい…。
性自認が女性でも男性でもない、Xジェンダー、ジェンダークィア、ノンバイナリー、
眠くなったので、また明日書き足そう。
と、ここまで書いたのが一昨日で、その後このことについて特別深く考えたわけではありませんが、結局思うことは、女であれ男であれ、現実のある人物がミスコンに出場することに夢を感じそれを目指すこと自体は自由ですし非難されるものではありませんが、映画として何を描くかという視点にたてば、この映画のように結果的にミスコン容認となるようなアプローチはよろしくなく、さらに言えば、もしアレックスがノンバイナリーだとすれば、むしろミスコンという画一的な女性の美の価値観に押し込められることには抵抗を感じるのではないかと思います。
ただまあ、この映画、そういう映画じゃないですもんね。