ミッシング

良くも悪くも「頑張る石原さとみ」を見る映画…

石原さとみさんが吉田恵輔監督に監督の映画に出たい(という意味だと思う…)と直談判して生まれたというこの「ミッシング」、吉田監督のオリジナル脚本ですので石原さとみさん当て書きの映画なんだろうと思います。

ミッシング / 監督:𠮷田恵輔(吉田恵輔)

「頑張る石原さとみ」という俳優…

吉田恵輔監督の映画は「ヒメアノ~ル」以降すべて見ていますが、これまでのものとは随分違います。映画が真面目といいますか、見ているものそのままです。裏もありませんし、驚きもありません。これは批判的な意味ではなく、「頑張る石原さとみ」を撮っているだけの映画です。

石原さとみさんの出演映画で見ているものは「シン・ゴジラ」だけですのでどういう俳優かあまり印象はないのですがこの映画でよくわかりました。吉田監督は石原さとみさんがこういう俳優だと考えてこのシナリオを書いたということになります。撮影しながら変更していったということも考えられますが、いずれにしても、私が見ている映画の範囲内で言えば、吉田監督はこれまでこういう俳優は使ってきていません。つまり、自分が望んで使いたいと思う俳優ではない俳優の持ち味(のある一面…)を生かしたシナリオを書いたということになります。

回りくどい書き方をしています。一体どういう俳優さんなんだということですが、「頑張る石原さとみ」としか言いようがなく、それゆえに吉田監督らしくない実にストレートな真面目な映画になっているということです。

冷静にならざるを得ない豊と砂田…

3ヶ月前に起きた幼女行方不明事件の幼女の両親とその事件を取材する地方のテレビ局の記者を追った映画です。2年後、まだその幼女は見つかっていない状態で映画は終わります。事件そのものを追った映画ではないということです。

事件のあらましはこんな感じです。その日、沙織里(石原さとみ)は推しのコンサートに行くために娘の美羽を自分の弟の圭吾(森優作)にあずけて出掛けています。夜になり、美羽が家に帰っていないことがわかり大騒ぎになります。夫の豊(青木崇高)は何度も沙織里に連絡を取りますが、コンサート中ですので連絡が取れなかったようです。圭吾によれば家から300mくらいの公園からひとりで帰ったということで、圭吾が最後に会った人物ということになります。圭吾は公園の近くで不審な車を見かけたと証言するものの、後に思い違いだったと証言を変えています。また、美羽と別れた後すぐに家に帰ったと言っていますが証明するものはありません。

3ヶ月後、今も情報提供を求めてチラシ配りを続ける沙織里と豊、それを取材する砂田(中村倫也)のシーンから始まります。

砂田は極めてまっとうな人物として描かれています。事件も3ヶ月もすれば世間の注目も薄れ、テレビ的に報道すべき情報はありません。それでも取材を続けています。

この映画の特徴ですが、沙織里以外の人物の映画的人物像がはっきりしていません。「頑張る石原さとみ」の反動かもしれません。とにかく、石原さとみさんが最初から最後までハイテンションで突っ走っています。

娘が行方不明になった親の気持ちや姿など想像しようとしても想像できるものではありませんので、これはあくまで映画の演技の上の話です。石原さとみさんの沙織里は一本調子で力が入り過ぎています。何ものをも寄せ付けないバリアが張られているような演技です。

人は、誰かが手もつけられないほど興奮していればその反動で客観的な目を持ち冷静になってしまうものです。

豊も砂田もそうした人物になっています。冷静な豊や砂田を見れば沙織里はさらに興奮します。この関係が映画の最初から最後まで続きます。吉田監督は、結果として、それでいいと判断したんでしょう。

砂田は、報道は事実を伝えるものだと視聴率優先のテレビ局内の空気に抵抗を感じていますが、特にこれといった行動を起こすわけではありません。結果として善良な傍観者ということです。豊は沙織里の勢いに気圧されて自分の感情を出す隙きがなく、まるで他人事のような冷静さに見えます。

興奮状態の沙織里と冷めた豊、そして砂田という人物配置で最後まで物語は進みます。

しかし、ラストシーン、その豊が泣き崩れます。そして、それを見た沙織里にも変化が起きます。今まで見えなかったもの、見ようとしなかったものが見えた瞬間でしょう。夫婦にはいつまでたっても穏やかな日は戻らないのでしょうが、それでもふたりにちょっとだけでも繋がりが戻れば心にやすらぎが生まれます。

心の機微と人間関係…

沙織里と圭吾の関係も同じです。

圭吾は証言の曖昧さから疑われることになります。砂田は沙織里に再度圭吾を取材したいと申し出ます。沙織里は取材を受けない圭吾に、必死ゆえに、もとはと言えばアンタのせいだから!と責めまくります。

やっと取材を受けた圭吾ですが、その曖昧さから、また砂田は抵抗するもののテレビ局の方針から意図とは違った興味本位の取り上げ方となり、圭吾がますます疑われることになります。

沙織里にとっても同じことで、テレビに取り上げられれば、再びコンサートに行っていたことが槍玉に挙げられ炎上します。沙織里はそれら中傷にいちいち反応してさらに興奮度を上げていきます。

そして半年後、再度テレビで取り上げられることになります。テレビ局は、その日、圭吾が家に戻ったのは美羽と別れてすぐの時刻ではなく深夜であることを示す防犯カメラ映像を見つけます。

砂田は沙織里に再度圭吾へのインタビューを申し出ます。一度目の繰り返しです。沙織里の行動はさらにヒートアップし、圭吾のアパートのドアを蹴飛ばすわ怒鳴り散らすわの大騒動です。結局、インタビューを受けた圭吾は、その日違法賭博へ行っていたと告白します。当然、さらなるバッシングにあうことになります。

吉田監督は真面目な性格のようで、防犯カメラ映像なんてとっくに警察が掴んでいるだろうとのツッコミには、砂田が刑事に詰め寄るシーンを入れ、刑事に、違法賭博を捜査中なのに言えるわけないだろうと言わせたり、圭吾が子どもの頃に苛めにあっていたとしたり、また子どもの頃に車に連れ込まれていたずらをされたことがあるとしたり、その時の残像で怪しい車を見たとの証言をしたとしたりしていました。そういう意味ではとてもていねいなシナリオです。そして圭吾には、そうした過去があったと言われてああそうかもしれないと思わせるキャスティングと演出がされています。

ということで、沙織里と圭吾の関係は断絶状態になりますが、後に車の中で(経緯は忘れた…)圭吾がぼそぼそっと、ごめん…なさい…ともらすことから沙織里が号泣するというシーンを入れています。

ということで、この映画から映画的テーマを感じることがあるとすれば、こうした人間関係の機微といったことかと思います。

吉田恵輔監督の本心はどこに…

という映画なんですが、いずれにしてもこの映画は石原さとみさんに尽きるわけで、良くも悪くも「頑張る石原さとみ」映画ということだと思います。

石原さとみさんの直談判は、自分を変えてくれる監督は吉田監督しかいないと考えてのことだとなにかの記事で読んだ記憶がありますが、その結果がどうであったかは今後の石原さとみさんを見るしかありません。

また、あるいはですが、吉田恵輔監督もこの映画でまたなにか演出力をつけた可能性も感じられます。メインストーリーとは関係のないような些細や演出を各所に施しています。その本当の意図は、本人が本音で話さない限りわからないことではありますが…。