この「森の中のレストラン」が長編デビュー作の泉原航一監督、「ゲートキーパー」という言葉を知ったことから生まれた映画だそうです。ただ、脚本は幸田照吉さんとなっており泉原監督の名前は入っていないです。デビュー作の脚本に監督の名前が入っていないというのは珍しいような気がします。
ゲートキーパー
gatekeeper という言葉自体は一般名詞ですし IT でも使われる言葉ですが、「ゲートキーパー」で検索しますと、ほとんど泉原監督が興味を持ったという「自殺防止」関連のサイトで埋め尽くされます。厚労省のサイトでは「ゲートキーパーになろう!」なんてコピーまであります。
この映画では、森の中のレストランで最後の晩餐を提供していた京一(船ヶ山哲)が、ラストシーンでは命を守る料理を作るとゲートキーパー宣言をしていました。
出だしは説明的で類型的…
かなり説明的で類型的な映画になっています。
ただ、全体の印象は悪くないです。紗耶をやっている畑芽育(はためい)さんの印象が良かったからかもしれません。
とにかく、出だしの説明的な展開とシーン構成はちょっと考えたほうがいいです。最初に脚本が誰かを書いたのはこれがあるからで、まさか監督の別名ということはないでしょうから、一概に監督のせいというわけではないんだろうという意味です。
森のカットが何カットかあり京一がやってくる、木に縄をかける、靴を脱いで揃える、縄に頭を通しやや悩む、猟師の欣二(小宮孝泰)が京一を見つける、(多分意識を失っていたのでしょう)京一を住まいに連れていく、そして5年後、女性3人が森の中のレストランに向かう、目を丸くして料理を褒めながら噂話で説明する、欣二がレストランに入っていく、欣二がオーナーのレストランで京一がシェフとして働いていることが説明され、欣二が夜にひとりの客の予約が入ったと言うという流れです。
さらに続きます。夜、男がやってくる、最後の晩餐を注文する、焼きそばを食べ最後の食事がコンビニでなくてよかったと言い出て行く、男が京一に止めないのですかと尋ねる、京一が人の生死には関わらない、ただ死ぬ前に他人を巻き添えにしないよう時間を置いて欲しいだけだと答えます。
なぜ京一が自殺しようとしたのか、また「他人を巻き添えにしないよう」とはどういう意味なのかが、これまでのシーンの間にフラッシュバックとして挿入されます。10年前、京一の娘は飛び降り自殺の巻き添えで亡くなっています。その悲しみと喪失感と、そしていつのことかはわかりませんが妻との離婚もあり、自殺を図ることになったということです。
わかりやすさが好まれる時代(日本では…)ではありますが、時代の流れに抗うことも映画にしか出来ないことのひとつです。
中盤は畑芽育が救う…
紗耶(畑芽育)の登場が映画の雰囲気を少しだけ変えます。
紗耶は孤独です。その訳は父親の DV です。これもかなり雑な描き方ではありますが、あまり突っ込んでもなんですので置いておくとして、紗耶は母親とともに父親の暴力的、かつ精神的虐待にさらされています。
紗耶が森のレストランにやってきます。最後の晩餐を注文します。京一は何も尋ねませんし、止めることもしません。食べ終わると森の中に入っていきます。しかし、紗耶は京一の飼っている犬に救われ、レストランで働くことになります。
つまり、紗耶が京一の亡くなった娘の代理のような立ち位置になるということです。欣二の年齢を考えれば三代の擬似家族のような関係が築かれます。
畑芽育さん、目立って何かがよかったということでもないのですが、全体的に作り物くさい映画の中にあって、なんとなく自然体であることが好印象になったんだと思います。
京一の船ヶ山哲さんは俳優ではなく、ウィキペディアによりますと「船ヶ山哲(ふながやま てつ、1976年1月14日 -)は、日本のビジネス作家、マーケティングコンサルタント。株式会社REMSLILA代表取締役」とのことです。難しい役だとは思いますが、さすがに固すぎます。下手な芝居をするよりは新鮮でしたが、映画が説明的であることでその新鮮さが生かされておらず、もっと抽象的でよくわかんない映画であればその素人臭さ(ペコリ)が生きたんだろうと思います。
いずれにしても中盤は畑芽育さんで救われている映画です。
終盤はまとめに入る…
終盤は映画をまとめようとしています。
紗耶は家出をしているわけですから、レストランでの姿がネットを介して警察に知られ、両親のもとに連れ戻されます。再び母親とともに虐待の被害者となります。しかし、京一たちとの時間を持ったことがあるのでしょう、すでに紗耶はひとりではありません。京一に助けを求ます。
と、どうやってまとめるかと思いましたら、何と! 殺人事件になっていました。
紗耶が京一に助けを求めたこと知った父親は紗耶に暴行を加えレイプ(さすがにこれは無茶苦茶です…)します。父親は訪ねてきた京一を家に入れます。京一を暴行します。突然母親が父親に襲いかかり殴り殺します。
もう少しいろいろあるにしてもこういうことです。脚本がひどすぎます。
後日、森のレストランには笑顔で働く紗耶の姿があります。京一は欣二に、これからは命を救う料理を作ると言います。
脚本の質を上げること
物語のつじつまを合わせることに力が注がれています。映画が説明的なのはその現れです。
他にも、かなり早い段階から、レストランに自殺しようとする者がやってくることをよく思わない若者たちを登場させ、彼らに紗耶の存在をネットにあげさせたり、その中のひとりに紗耶が虐待にあっているのではないかと心配させ、そう思う理由として仲間には同じ経験をしているやつも多く、同じ目をしていると言わせたり、紗耶を自殺未遂に終わらせるために犬を使ったりしています。
まだあります。欣二までも訳ありの過去を持つ者にしたり、京一の妻の再婚の話もそうです。
現実ってそんなにつじつまはあっていないですよ。