ファイブ・デビルズ

同性愛に子どもの母親愛を対立させているように感じる

主演はアデル・エグザルコプロスさん、アブデラティフ・ケシシュ監督の「アデル、ブルーは熱い色」で共演のレア・セドゥさんとともに監督を含めた3人でカンヌのパルムドールを受賞した俳優さんです。もう10年近く前になります。

監督のレア・ミシウスさんはこの映画が長編2作目で、脚本家でもありますので、私が見ている映画ではジャック・オディアール監督の「パリ13区」に脚本として参加している方です。1989年生まれですので現在33歳くらいです。

ファイブ・デビルズ / 監督:レア・ミシウス

5人の悪魔村?

原題が「Les cinq diables」、5人の悪魔という意味ですのでホラー系の映画かと思いましたが、若干魔法ファンタジーのようなところはあるにしてもその手の映画ではなく、制作者たちにその意図があるかどうかは分からないにしても、映画のベースに「同性愛差別」による悲劇があるという意味では怖い話ではあります。日本の公式サイトでは「禁断のタイムリープ・スリラー!」なんて煽っているその「禁断」という価値観こそが悪魔的という映画です。

ただ映画自体にも焦点が定まらないところがあり、その「同性愛差別」を強く表に出しているわけではなく、シンプルに考えればジョアンヌとジュリア対保守的共同体で描けばいいところを、まだ10歳にも満たない子どもの母親愛を使って物語を作っていることこそが問題だとは思います。

日本の公式サイトによれば、Les cinq diables は映画の舞台となっている架空の村の名前だそうです。映画の中ではその名前になにか重要な意味があるようには感じられませんでしたが、でもわざわざそんな名前をつけるくらいですから、やっぱりなにか意味があるんでしょう。娘のヴィッキーが悪魔的な行為をするにはしますが5人じゃないですし(笑)、映画の途中のワンカット(見間違いかも…)とラストに黒人の子ども(かな?)が唐突に登場していましたが、あれは何でしょう? 続編への前ぶりなんでしょうか?

なぜそんなに悪魔にこだわるか自分でもよくわかりませんが、この映画で誰が悪魔かと言えば、もし描くべきものがきちんと描かれていたとするならばの話ですが、それはジョアンヌが暮らす共同体でしょう。

同性愛とタイムリープ

かなり早い段階で話の筋は読めます。こういうことです。

映画の時間軸の現在、ジョアンヌ(アデル・エグザルコプロス)とジミー夫婦にはヴィッキーという6、7歳の娘がいます。ヴィッキーには特殊な能力があり、匂いを媒介にしてその匂いをもつ人間の過去を見ることが出来ます。

ヴィッキーが過去へ行くことはタイムリープのように見えますが、その過去の人物にはヴィッキーは見えていないわけですから、ヴィッキーの能力としては時間を超えて交信できると考えたほうがわかりやすいです。

ジョアンヌ夫婦のもとにジミーの妹ジュリアがやってきます。ジュリアは訳ありです。ヴィッキーはジュリアの持っていた液体(よくわからない…)を使って過去と交信し10年前のジュリアとジョアンヌの関係を知ります。

10年前、ジョアンヌは町の体操クラブで活動しています。そこに新会員としてジュリアがやってきます。ふたりは愛し合います。気配を感じているジョアンヌの父親はジュリアを遠ざけようとしています。ふたりは町を出てマルセーユへ行こうと約束しています。ただ、ジュリアは頻繁に少女の幻を見るようになり、町の人々からは精神的におかしいと見られています。

そしてふたりがマルセイユ行きを約束しているクリスマスの体操クラブの発表会の日、演技の途中で先に抜け出してジョアンヌが出てくるのを待つジュリアは、会場のクリスマスツリーの中に少女の幻を見ます。パニックに陥ったジュリアはツリーに火をつけます。その火が会場に拡がり、やけどを負った者もいます。映画はその後の経緯を何も描いていませんが、ジョアンヌはジュリアの兄である消防士ジミーと結婚し、ヴィッキーを出産したということです。

ジュリアが見た幻の少女はヴィッキーです。

という10年前の出来事が現在軸と交互に描かれていきます。現在のヴィッキーは、ジュリアがやってきたことで母親を奪われるのではないかとの不安でジュリアの匂いを媒介にして10年前と交信し、その姿をジュリアが見ていたということです。つまり、ジュリアにも時間を超えて交信する能力があるということです。

で、映画のオチは、再び町を出ていくことにした(理由ははっきりしない…)ジュリアが入水自殺をし、それを交感で感じたヴィッキーがジョアンヌとともに駆けつけてジュリアは一命をとりとめ、ジョアンヌとジュリアは救急車の中で愛を確かめ合い、ビッキーは父親とともに暮らしていくことになるだろうということでまとめられていました。

ラストシーンの少女はジュリア本人かジュリアの子どもという設定で続編狙いの前ふりでしょう。適当な想像です。

エンターテインメント狙いが裏目に…

実際のところ、脚本を書いたレア・ミシウスさんとポール・ギローム(パリ13区の撮影にクレジットされている)さんが何をやろうとしたのかはわかりませんが、仮に同性愛が共同体から受け入れないことが問題だということを描きたかったとしたらこれはダメでしょう。

その役割を子どもに担わせるというのは間違いです。仮にそうだとすれば何にしてもその原因はエンターテインメント志向だからです。逆に言えば、もしエンターテインメント志向でその題材として同性愛差別を使ったのであればそれはそれで大問題でしょう。

いずれにしてもシナリオが雑です。ジュリアが戻ってきたことの理由付けも曖昧ですし、それを受け入れるジミーの迷いもありませんし、ジョアンヌの心の揺れも描かれていません。ジョアンヌの同僚のやけどを負った女性の位置づけも詰められていませんし、その女性がジョアンヌにジミーを取られたと詰りながらも一緒に働けるような環境でなぜ同性愛が受けれられないのかと思います。もしそうならそれでそうした共同体の保守性を描かなければまともな映画にはなりません。

もうひとつ、ずっと気になっていたのは編集の慌ただしさと音楽の入れ方ですが、やはり全体として映画のつくりが煽りパターンですのでエンターテインメント志向の強いレア・ミシウス監督なんだろうと思います。

もちろん一概にエンターテインメント志向を否定しているわけではなく、子どもの母親愛を同性愛に対立させるのはどうなんだろうと思うだけです。