ロケーションに頼り過ぎキャスティングに頼り過ぎた1998年の映画…
「そばかす」の玉田真也監督、松田正隆さんの戯曲の映画化です。平田オリザさんによる1998年の初演以来、幾度も上演されている作品らしく、玉田真也さんも自身の劇団「玉田企画」で上演した作品だそうです。

皆が皆、心の乾いた人たちの話だったようだ…
「雨が一滴も降らない、からからに乾いた夏の長崎」だったんですね。
まったくそんな感じがしなかったんですが、私が鈍い? 優子(髙石あかり)が水が出ないと言ったときでも、水道止められた? と思ったくらいです(笑)。
多分、この肝心なことがわからなかったので最後までポイントの定まらない映画だなあと思ったんですね。
つまり、この映画は登場人物、皆が皆、心の乾いた人たちの話だったということです。
映画冒頭、大雨の画が数カットあり、続いてカラッと晴れた青空になり、治(オダギリジョー)が長崎の坂道を歩いて家に帰るシーンになります。
たしかに、暑い、暑いと言ってはいましたが、オダギリさんの飄々としたキャラからは「カラカラに乾いた夏」は浮かんできませんし、行き詰まった男の感じはしません。
とにかく、最後まで何が問題なのかわからない映画ということです。
言い方を変えれば、今の映画ではないということです。何が問題なのかわからなくても今の映画であれば何某か感じるものがあるというのが映画です。映画は過去の価値観、あるいは空気観でつくればノスタルジーにしかなりません。演劇はそこに生の人間が介在しますので常にリアルです。
結局のところ、この映画は1998年の映画ということです。
治のまわりからみんな去ってしまった…
特に説明はありませんが、治(オダギリジョー)は働いていた造船所が倒産して失業状態です。求職活動もしていません。また、妻恵子(松たか子)とは別居しています。これも特に説明はありませんが、徐々にわかってくることは、10歳くらいの息子が集中豪雨のときに川に流されて亡くなっており、おそらくそれが影響したのでしょう、恵子が治の同僚の男(森山直太朗)と関係を持ったためのようです。
映画始まってすぐです。治の妹阿佐子(満島ひかり)が17歳の娘優子(髙石あかり)を預かってほしいと置いたまま有無を言わせぬ勢いで男のもとに行ってしまいます。
という設定で映画は進みます。
で、物語は徐々に徐々に進み、結局のところ、治と恵子は離婚し、恵子は同僚の男とどこかへ行ってしまいます。
優子はアルバイトで働き始めたスーパーの男(高橋文哉)と付き合い始めますが、それも真剣というわけではなく、あれこれスーパーでの人間関係が鬱陶しくなったのでしょう、本人に捨鉢な気持ちもあることから解雇され、男との付き合いも有耶無耶で終わります。
恵子が同僚の男と去るとき、優子はおじさんの面倒は私がみる!と啖呵を切ります。お! ドラマが始まった! と思ったものの、母阿佐子が新しい男とカナダへ行くからと迎えに来たために一緒に行ってしまい、あっけなく終了です。
みんな去ってしまいました。カラカラになってしまった治です。
長崎のロケーションに頼り過ぎ、キャスティングに頼り過ぎ…
結局のところ、何をしようとしたのかよくわからないという映画ということです。
それに長崎というロケーションに頼りすぎています。車の入れない坂道の路地のカットが頻繁に使われています。治や優子がその道を行ったり来たりするカットが、それもほぼ同じショットで繰り返されます。
まあ人それぞれですので一概には言えませんがつくり手が思っているほど新鮮なものには感じられません。その風景の中の人物に思いがないとただその風景を見せているだけにしか見えないということです。
キャスティングのバランスもよくないですね。
こんなことを言いますと身も蓋もありませんが、オダギリジョーさんは治のキャラじゃないです。松たか子さんももったいないです。髙石あかりさんも本来の力(多分…)が発揮できていません。
という映画でした。