ホン・サンス監督の自虐的懺悔映画か?
私には2017年の「それから」以来のホン・サンス監督です。特別注目しているわけではありませんが、名前をみれば見てみようかと思う監督です。
公式サイトに、主演のキム・ミニさんが「監督の公私のパートナー」とありましたので、そうなんだとググってみましたら、数年前からプライベートでもパートナーの関係にあるようです。それを知りますと、映画が違って見えてきます。
以前見た「ハハハ」や「よく知りもしないくせに」は映画監督の話でしたし、「それから」にしても不倫を題材にしていましたし、自分の話を映画にしてしまう監督なのかも知れません。
先鋭化する映画スタイル
以前からそうですが、映像で言えば、長回し、横からのツーショット、そしてそこからの意味不明なズームアップを多用しますし、映画の内容では人物二人による会話劇、特に男女の会話が多いですし、食べたり飲んだり、煙草を吸う演技を使うことが多い監督です。この映画は全編それらでつくられていると言ってもいいくらいです。
ガミ(キム・ミニ)が3人の知り合いを訪ねて近況を語り合ったり昔話をするだけの映画ですので、6、7割は女性2人が向き合って話をしている印象で、それらがそれぞれワンカットで撮られています。
こんな感じです。話していることは(一見)他愛のないことで、映画全体にも明確なストーリーはありません。
ですので、逆にそこからいろいろなことが読み取れる(と見る側が思ってしまう)映画ではあります。
ただ、それらの手法がここまで先鋭化してしまいますと、つらさを感じる人も多くなるのではと思います。映画の長さは77分、まあいい時間ということでしょう。
ホン・サンス監督の個人的な映画か?
男性監督と女性の俳優のカップルというのは夫婦関係も含めて結構耳にする話で、それ自体、映画界が男性中心の世界であることの現れみたいなものですが、それは置いておいて、映画であれ何であれ、ものを作り出すことは相当なエネルギーが必要なことですので、その時自分が置かれている状態が意図せずとも映画に現れてしまうことはあり得ることだと思います。
「正しい日 間違えた日(2015)」で初めて(映画で)出会い、「夜の浜辺でひとり(2017)」や「それから(2017)」では不倫を題材にした映画を撮り、「夜の浜辺でひとり」の際の記者会見(懇談会?)では公式の場で「お互いに素直に愛しあう関係」と堂々と公表しているわけですから、この映画もその延長線上にあると考えるのが自然でしょう。
仮にこれらの映画がそうしたホン・サンス監督の個人的な映画だとしても、この映画には下世話さは一切なく、キム・ミニさん演じるガミという女性の内省的な映画に(みえるように)なっています。
ガミ、ヨンスンを訪ねる
ガミ(キム・ミニ)は夫の出張中にソウル郊外の知り合いを訪ねることにします。結婚して5年、一日として夫と離れたことはありません。この後、ガミは会う人ごとに夫が「愛する人とは何があっても一緒にいるべきだ」と言っていると言います。
一人目はヨンスン(ソ・ヨンファ)、先輩と呼んでいましたので大学か仕事の先輩だったのでしょう。ヨンスンは夫と離婚し、見た目歳の若くみえる女性と同居しています。
例によって向かい合う二人のツーショットでとりとめのない会話がワンカットで続きます。時々、あたかも監督自身がちょっと近くで見てみようと思ったかのようにヨンスンにズームアップします(ここじゃなかったかも)。
ここでのポイントは、まず、ヨンスンが夫との生活が泥沼状態でつらかったと話すこと、そして、その夜、あたかもその話とつながっているかのような話が語られます。
夜、ガミが防犯カメラ映像に映る女性について尋ねますと、その女性は隣の26歳の女性で、ある日突然母親が逃げ出し、その原因はどうやら父親にあるらしいということです。
意味深と言えば意味深です。
そしてもうひとつ、これは意味合いとしては3つの話に共通していることなんですが、隣人の男性が訪ねてきて、ヨンスンたちが野良猫に餌を与えていることに苦情を言いにきます。ヨンスンたちが猫も生き物だからと反論しますと男性は人のほうが大切だと言い返してきます。
この映画、3つの話すべてにまるで異物のように男性を登場させています。あるいは、この男性の置かれている立場が監督自身が感じている自分のポジションなのかも知れません。
そう言えば、鶏の話もありました。ヨンスンが、近所の鶏について、雄鶏が雌鶏に乗っかってしきりに首の後ろを突っつき雌の毛が抜けてしまっているなんて言っていました。ガミは交尾しているんじゃないって言っていました(笑)。
ガミ、スヨンを訪ねる
二人目のスヨン(ソン・ソンミ)を訪ねます。
スヨンはピラティスのインストラクターをしておりひとり暮らしです。ひとりで物憂げな表情のスヨンのカットが入っています。
ガミとのツーショットはやはり食べて飲んで喋るというパターンです。スヨンは最近素敵な男と会い、たまたまその人が下の階に住んでいると話します。ただ、その男は別居中だけど妻がいるのとも言います。
若い男が訪ねてきます。男は話がしたい、中に入れてほしいと懇願しますが、スヨンは頑なに拒否します。挙げ句の果に上の画像のようにストーカー呼ばわりします。男は人間として扱ってほしいと訴えます。
スヨンはガミに、酔っ払って一度だけ寝てしまったと語ります。
ガミ、ウジンを訪ねチョン先生に会ってしまう
3人目のウジン(キム・セビョク)を訪ねます。ウジンは映画館やカフェやイベントスペースのあるビルを持っているようです(よくわからない)。
ガミが映画を見ています。ラストシーンのようで海辺の波で終わります。男の影が横切っていきました。何なんでしょう? ひょっとしてチョン先生? それに映画もホン・サンス監督の過去の映画のワンシーンかも知れませんね(適当です)。
ガミがカフェにいますとウジンがやってきて映画を見に来たのと話しかけてきます。ウジンはやや気まずそうです。
はっきりしませんが、どうやらウジンは結婚しており、夫はガミが付き合っていたチョン先生という男らしく、そのチョン先生は今やテレビにも出演する売れっ子でその日も地下のスペースでイベントがあるようです。
はっきりは言いませんがウジンはガミに謝っているようです。上の画像の手を置いているのはそういう意味だと思います。
ウジンはチョン先生のイベントは満員だと言っています。映画の客はガミひとりでした。ただ、最前列に客とは思えいない男が寝そべっていたんですが誰だったんでしょう? ひょっとしてチョン先生?
よくわかりませんがとにかく、偶然なのか、ガミがそのつもりだったのか、チョン先生に再会します。チョン先生は俺に会いに来たんだろうなどと言っています。やや微妙な感じを漂わせつつガミはその場を離れます。
ガミはもう一度映画を見ます。やはり客はひとりです。そして去っていきます。
ホン・サンス監督の自虐映画かも
やはり何らかのふたりの関係が反映されているのでしょう。
珍しいことではないと思います。だいたい映画であれ小説であれ、男のつくり手というのは自分の創作物を使って個人的な愛を語ったりするものです(笑)。
ということで、この映画にはホン・サンス監督の懺悔やら、愛の告白やら、恐れやらがたくさん綴られているのだと思います。その意味では「逃げた女」なんてタイトルはかなり意味深です。
逃げたい女たち
ただ、この映画がそうした個人的な思いが反映されたものだとしても、結果として、無神経で思慮のない男たちから「逃げたい女」の悲哀のようなものがにじみ出ているように感じられます。
「夜の浜辺でひとり」でも見てみましょう。