ノマドファンタジーへの誘い
間もなく発表になる今年のアカデミー賞に作品賞、監督賞、主演女優賞など6部門でノミネートされています。先日見た「ミナリ」も同じように6部門でノミネートされていることとあわせて考えますとなんとも興味深いです。
どちらもアメリカのルーツに関わるような内容なのにどちらも監督がアジア系であり、そしてどちらも映画の基調がノスタルジックです。
感傷的な、あまりに感傷的な
もっと厳しさのある映画かと思っていましたら、かなり感傷的な映画でした。
2008年のリーマンショックの影響によって2011年に石膏鉱山が閉鎖され、企業城下町であったネバダ州エンパイアという町(217人/2010年)がゴーストタウンになりZIPコードも廃止されたというのは事実です。
そこで夫とともに働いていたファーン(フランシス・マクドーマンド)は夫を病で亡くし、仕事も失い、車上生活に入ります。最初のシーンがコンテナ倉庫から必要なものを車に積み出発するところですが、ジーンズ素材の衣服を抱きしめていたのは夫の着ていたものなんでしょう。
そうした夫への思いや過去を懐かしむ気持ちを抱えたファーンがアメリカ中西部の荒野を転々と移動し、同じく車上生活をしている多くは高齢者と出会って心を通わせていくわけです。どうしたって感傷的な映画にはなります。
さらに下の画像のような荒涼とした風景の映像に哀感のあるピアノ曲が流れるわけです。泣きはしないにしてもセンチメンタルな気持ちになります。
それに俳優はそのマクドーマンドさんとファーンに思いを寄せるデイブを演じているデヴィッド・ストラザーンさんのふたりだけで、後は実在の人物が実名で登場しています。原作の『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』にも登場する人たちとのことですので実際に車上生活者であるか、あった人たちなんでしょう。
そうしたこともありドラマチックなことが起きるわけではありません。淡々としたロードムービー風の映画になっています。
たしかに憧れにも似た気持ちも起きてしまいます。
現実の車上生活は描かれているか
現実の車上生活がどんなものかはわかりませんが、この映画にはそうした現実面があまり感じられません。
たとえば排泄物をどうするかについて、やや冗談めかしてバケツのサイズで云々と笑いを取るような場面があったり、ファーンが突然お腹を壊して車内でバケツに排泄し車の上部の換気扇(のようなもの?)を開けたりするシーンはありますが、じゃあその排泄物はどうするんだろうと思います。
食料や生活必需品も必要でしょう。それらを購入するようなシーンもありませんし、移動しながら収入を得ているにしてもそれらに具体性はなくお金に困るようなシーンもありません。仕事がないと語るシーンはあっても実際に困るようなシーンはありません。
映画の中で発生するトラブルといえば、パンクしても誰かが助けてくれますし、車が故障して修理代に2,000ドル(くらいだった)必要となり手持ちがなくても姉に電話をして借りたりしています。姉はファーンのことを気にかけており一緒に暮らさないかと言います。
ファーンに思いを寄せるデイブが倒れればすぐに入院します。そのデイブにしても車上生活をやめて息子の家に同居することにしますし、ファーンにここで一緒に暮らさないかと誘います。
まるで皆余裕のある老後の余生のようにも見えます。
この映画は本当にリーマンショック直後のアメリカなんだろうかと思います。それにほとんど白人です。生活困窮からの車上生活という映画ではないようです。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
ファーンが車上生活に入る発端はすでに書きましたが、ただ単に家も職も失いという理由だけではないように描かれています。
姉があなたは勝手気ままに生きてきた(そんな言い方ではないが)みたいなことをファーンに言っていたように思います。それに、姉やデイブに定住しないかと言われても断っています。ファーンは車上生活を自ら望んでいるということでしょう。
車上生活を始めてすぐのシーンで、知り合いの子どもに「ホームレスになったの?」と問われ「ホームレスじゃなくハウスレスよ」と答えるシーンがあります。この映画が決してやむなくその境遇になったのではなく自ら車上生活を選択している人たちの映画だということを現しているのだと思います。
それゆえにこの映画はアメリカの原点のようなもの、フロンティア精神みたいなものを刺激するんだろうと思います。「ミナリ」とも共通している点かと思います。
この映画、ロードムービー風ではあっても、実際に移動するシーンは上に引用した画像のようなドローン映像くらいで、移動した先々でのエピソードで進んでいきます。ですので全体を通した物語といったものはありません。
そのエピソードを断片的に書くことになりますが、まず車上生活に入ってすぐにファーンは Amazonの配送センター(かな?)で働きます。その経緯は描かれません。実際に Amazonはネバダ州にかなり投資していろいろな施設をつくっているようですのでそのひとつでしょう。
そこで知り合ったリンダ・メイにノマドのカリスマ(のような人物)ボブ・ウェルズの集会(のようなもの?)に誘われます。一旦は断りますが、後に参加します。
この前後かと思いますが、職安のような施設で、生活保護のようなものを受けたらどうかと言われ、いいえ私は働きたいの、仕事が好きなのと答えるシーンがあります。
ボブ・ウェルズの集会に参加します。集会ではボブが演説し、自分はノマドたちのサポートをしたいと語っています。皆フレンドリーです。ただ、それぞれ独自のテリトリーを持っており過剰な集団性は避けているようにも描かれています。ファーンもよく馴染んでいます。後に映画の中の一番のエピソードとなるデイブとも出会います。
その集会で皆が去った後(かも知れない)、車がパンクしたことをきっかけにスワンキーと知り合います。スワンキーにはいろいろ車上生活の心得を教わります。またスワンキーは自分が末期がんだと語ります。
スワンキーとはそのまま別れますが、次にボブ・ウェルズの集会(1年後?)を訪れた時にはもう亡くなっています。
ボブ・ウェルズが言います。我々は決してさようならとは言わない、また会おうと言うだけだと。
デイブとは幾度か会うシーンがあります。ふたりがダイナーで働いているとき、デイブの息子がやってきます。はっきりしませんでしたが、デイブに自分の家に来るように説得に来たんだと思います。そして、デイブはファーンにいつでも寄ってくれと言い残し、息子のもとに去っていきます。
時間経過はわかりませんが、ファーンがデイブの元を訪れます。息子には子どもが生まれておりデイブはおじいちゃんになっています。ファーンは歓迎され、さらにデイブにはここで一緒に暮らさいないか、君が好きだ、家族には話していると言います。結局、ファーンは車上生活を続ける道を選択します。
以前会ったことのある若者に再会し話しかけます。両親は? 恋人は? と尋ね、手紙を書いていると答える若者に詩は送らないのかと言い、シェイクスピアのソネット18番を暗唱します。
1分20秒からです。
ファーンはエンパイアに戻り、コンテナ倉庫に残した家財すべてを処分します。そして廃墟となった会社社屋や夫と暮らした住まいを訪れます。
住まいだったその向こうには荒涼とした荒野が拡がっています。ファーンは荒野に向かって歩き出します。
ノマドファンタジーか?
この映画の車上生活者は生活困窮者ではありません。いや、そうかも知れませんが、映画はそのようには描いていません。
ファーンにしてもデイブにしても行くあてがないわけではありません。セイフティネットのある人たちです。
それゆえでしょう、この映画が我々の気持ちをざわつかせ、ある種ノマドファンタジーの世界に誘い入れてくれるのは…。