マイク・リー監督の関心は歴史ものに移っている?
マイク・リー監督、前作の「ターナー、光に愛を求めて」あたりから、興味の向く先が歴史ものに変わっちゃったんですかね。それに、そのターナーにしてもこのピータールーにしても、映画化するまでは知らなかったと語っているようです。
私の見てきたリー監督の映画、「秘密と嘘」「ヴェラ・ドレイク」「家族の庭」では、家族関係など割と日常の中の人間関係を丁寧に描写するという印象なんですが、この「ピータールー マンチェスターの悲劇」はそうしたところがまったくないです。
映画としても何を狙ったのかさっぱりわからないつくりで、逆にその異質さに興味がわいてしまうような映画です。
人間関係、あるいは人物描写という点では、まずこの映画には中心となる人物がいません。ヘンリー・ハントいう改革を求める民衆側のリーダー的な人がいますが、映画として軸になっているわけではありません。プライドが相当高い人物と描かれてはいますが、それだけです。そのことがまわりに波及するような描写ではありません。ただ、鼻持ちならない奴だなあと思えるだけです(笑)。
群像劇かと言いますと、そうと言えるほど個々の人物にこだわっているようでもありません。例を上げますと、冒頭のナポレオン戦争の戦場のラッパ吹きの少年、戦場の惨憺たる状況に茫然自失の体で、戦後もその状態のまま家に戻ります。その後時々登場しますが、一貫してその状態のままで台詞もありません。ラストシーンのピータールーの虐殺シーンでも顔を出しますが、特に映画の何かを担っている人物のようにはみえません。
当然ながら群像劇は集団劇ではありませんので個々の人物描写がなければ成り立ちません。
じゃあこの映画は何なんでしょう? よくわからないというのが本当のところですが、ひいき目に見れば(ペコリ)という意味では、集団、あるいは層としての人間たちを描いてみようと思ったということはあるかもしれません。
民衆側の集会のシーンが非常に多いです。それもリーダー的な人物が代わる代わるに演説するシーンばかりで、演説を聞く側の民衆たちの生活などはほとんど描かれません。「経済状況が悪化、労働者階級の人々は職を失い、貧しさにあえいでいた(公式サイト)」というのは前提としてあるだけです。
現在頻繁に登場する言葉に「ポピュリズム」というものがあります。この映画では、演者たちが演説の上手い下手を競い合うかのようなシーンが結構あります。彼らにレッテルを貼るとすれば「ポピュリスト」でしょう。
この点で言えば、この映画に、仮に層としての人間たちが描かれているとすれば、それは民衆そのものではなく、民衆の中のエリートたちということになります。
そしてもう一方の支配階級側の王侯、貴族、資本家たちは徹底的に(現代からみれば)馬鹿に描かれています。すでに人権という価値観は理解される時代ではあったのでしょうが、まだまだ限定的で、支配階級にあっては、幅はあるにしても、人間観や主従に対する価値観はあんな感じだったんでしょう。まるで人と考えていない人物から少なくとも法に則った判断をしようとする者まで、まあ、現代でも人権に対するベースは変化していてもさして変わっていないかもしれません。
いずれにしても、映画としては、そのどちらの層(階級)の描写も執拗です。変化はなく同じ視点の描写が続きます。そういう映画です。
そして、虐殺に突入します。
んー、集団アクションシーンが下手ですね。撮影監督は、リー監督の「ほぼ全作品を手掛け(公式サイト)」ているディック・ポープさんという方ですが、失礼ながら、苦手なものに挑戦してはみたけれど…、的な感じです。
位置づけのよくわからない人物もいましたね。正規軍の司令官、行政の長のような人のところへ自ら売り込みに来て、民衆側に暴動を焚き付ける謀略を図っていた男、その時代警察組織みたいなものがあったとすればそのような行動を取っていたマントを来たでかい男、などなど、シナリオ段階では整理されていたんだろうかと、かなり疑問が残ります。
ということで、史実に忠実であろうとした真面目さが裏目に出た映画ではないかと思います。
ただひとつ、嫌味でもなんでもなく、英語学習の教材としてはかなり役に立つ映画ではないかと思います。イギリス英語で聞き取りやすいですし、演説ですので発音も明瞭、文章もきちんとしているように思います。