ポゼッサー

暗殺者は身近な者の顔でやってくる

他人の体を乗っ取って殺人を犯す殺し屋の話です。

監督はブランドン・クローネンバーグさん、その名前から想像できるとおり、デヴィッド・クローネンバーグ監督の息子さんです。1980年生まれですから42歳くらいということになります。私は見ていませんが、2013年に「アンチヴァイラル」という映画で長編デビューしています。この映画が長編2作目です。

ポゼッサー / 監督:ブランドン・クローネンバーグ

物語はシンプルだが、描き方によっては…

物語は極めてシンプルです。公式サイトにはSFとありますが、未来的なテクノロジーが駆使されることもありませんし、未来であるかどうかもほとんど物語的には意味はありません。

殺し請負業(多分)の組織で働くタシャ(アンドレア・ライズボロー)が、コリン(クリストファー・アボット)の体を乗っ取り、その恋人の父親である大企業(多分)のCEOを殺した後、コリンの体から脱出しようとするも出られなくなるという話です。この際のタシャとコリンの脳内闘争が見どころとなるはずなんですが、肝心のそこがもうひとつで残念な映画ではあります。

他人の脳内に入り込むということはかなりいろんな物語が作れそうですが、クローネンバーグ監督はそれをビジュアルで見せたかったようで、脳内闘争は単に争っているんだな程度にしか描かれていません。

あるいは結末でうーんと唸らせたかったのかもしれません。

組織は、脱出できないタシャを救うために他のエージェントに他の人物を乗っ取らせて送り込みますが失敗、さらに別のエージェントがタシャの子どもを乗っ取ってタシャの救出を試み、脱出は成功したものの子どもがコリンに殺されてしまいます。

言葉だけですとちょっとややこしいですが、脱出するということは乗っ取った人物に自殺させるということで、脱出できないということは、おそらく脳内闘争から自殺行為が取れないということだと思います。ですので、タシャ(コリン)に近づきやすい子どもを乗っ取ってコリン(タシャ)を殺害したものの、子どもがコリンに撃ち殺されてしまったということでしょう。

この結末であればかなり盛り上げも可能だと思いますが、どうやらクローネンバーグ監督にはその気もなかったようで、脱出したタシャが正常であることを確認するワンシーンを入れて映画を終えていました。

物語に厚みが足りない

シンプルは悪いことではありませんが、この結末のように子どもを使うのであればタシャの人物像や家族のことを厚く描いておかないと盛り上がりません。その気はなさそうではありますが(笑)、ただ、タシャが家に帰る(子どもを訪ねる?)下の町並み、かなり印象的ですし、ワンカット、ツーカット見せるだけじゃもったいないです。

殺す相手にしても、誰がなぜ殺したがっているのか何も描かれません。

そのCEOは娘と付き合う者には試練を与えるみたいなことを言ってコリンに単純労働をさせていました。あの企業は何をやっているんでしょう。メタバースのような、でもアバターではなくリアルな人間でしたが、その男女がセックスしているところへバーチャルで入り込んでカーテンがどうのこうのとかいっていたように思います。

あまりにもわからないのでどうでもいいことだろうと好奇心もわきません。セックスシーンを見せておけば持つだろうとでも考えたんでしょうか。

やはり脳内闘争を描かねば…

どう考えてももったいないですね。

映画のつくりは、この手の映画にしてはテンポもゆったりしていますし、たしかにグロい描写はありますがそれを前面に出そうとしているようでもなく、やはり、タシャとコリンの脳内闘争を心理的な物語として描くべき映画でしょう。

クローネンバーグ監督のインタビュー記事を読みますと、タシャの暴力性ということにこだわっています。タシャに内在する暴力性が他者の身体に入り込むことによって顕在化するということなんでしょうか。それをビジュアル、特に原色、黄色で表現したみたいなことを言っています。

スクリーン上のヴァイオレンス表現に興味を持っているとも語っており、この映画では、特にCEOを殺害する(死んではいない)際に火かき棒でCEOの喉をついたり、目玉をえぐり出したりするシーンをアップで撮っています。ただ、言葉としてはエグく感じますがビジュアルとしてはわりと淡白です(そうでもないか(笑))。

やはり、その画に人の思いが伴わないビジュアルはそれ以上のものではないということでしょう。暴力行為の場合はその方がいいとも言えますが。