およそ想像のつく話だが、意外にもベタさを避けたいい映画だった…
メキシコの最底辺の地域の小学校6年生のクラスが型破りな教師の指導で学力テスト全国トップに躍り出たという、またかと思うような話なんですが、これがなかなかうまくできており、かなり好感のもてるいい映画でした。2011年に実際にあった話をもとにしているそうです。
実話という元ネタを探してみた…
実話ベースの映画ということですので元ネタを探してみました。これですね。
WIRED の2013年10月15日の「A Radical Way of Unleashing a Generation of Geniuses」という記事です。タイトルは「革新的方法(教育)が天才を生み出す」といったニュアンスかと思います。
2011年に、テキサス州との国境に面したマタモロスという人口50万くらいの町の小学校で起きたことを取り上げてオルタナティブ教育について書いている雑誌記事です。
マタモロスはここですね。
ズームするとわかりますが国境が異様にくねくねしています。リオグランデ川が国境になっているからです。映画の中でも麻薬絡みのギャングが登場していましたが、そうした話にも真実味が感じられる印象の地域です。
この WIRED の記事から映画に使われているエピソードがいくつかあります。
パロマという女子生徒の存在とその家庭環境、宇宙飛行士の話は出てきませんがかなり優秀な子どもだったようです。父親がゴミ山から廃品を回収をして売ることで収入を得ていたことも記載されています。映画では一人っ子でしたが実際は8人兄弟姉妹の末っ子とのことです。
もちろんセルヒオ・フアレス・コレア先生は実在の人物です。セルヒオが校長先生に動画を見せるシーンがありましたが、多分イギリスのニューカッスル大学の教育工学の教授スガタ・ミトラ氏(Sugata Mitra)の講演だと思います。
※スマートフォンの場合は2度押しが必要です
子どもたちの自発性を重要視してコンピューターを活用する教育理論のようで、その例として、コンピューターなど見たこともないインドのスラム街の子どもたちの前にコンピューターを置いておいたら自発的に文字マッピングや DNA複製(ちょっとよくわからないけど…)などを学んだことをあげています。
映画でセルヒオがやたらコンピューターのことにこだわっていたのはこのためですね。
でも、現実もそうだったようですが、映画では生徒たちがコンピューターを手にすることはありません。それに対して記事は、
“But you do have one thing that makes you the equal of any kid in the world,” Juárez Correa said. “Potential.”
「しかし、君たちは世界中のどんな子どもたちにも引けを取らないものを持っている。それは可能性だ」とフアレス・コレアは言った。
と書いています。
他には、井戸に閉じ込められたロバの話とか、1から100までの数字を足すといくつかの設問にパロマが5050と答えたとか、パロマの父親の体調不良(実際は2012年に癌で亡くなっている…)とか、中絶についての議論とか、役人がコンピューターの説明をすると言ってやることが単に写真で説明するだけだったとかが記事に書かれています。
そして、パロマの試験の結果、数学の点数921点は全国の最高点だったそうです。もちろんパロマだけではなく全体的に底上げされており、この出来事がメディアから注目され、パロマはノートパソコンや自転車を手にすることになり、テレビ番組に出演したりしたそうです。そして、
この大学の図書館の司書役で出演しているのが現在のパロマさんです。2024年2月19日の THE LATIN TIMES の記事はパロマさんが州議会議員選挙に立候補予定だと伝えています。
という WIRED の記事にあるエピソードを交えながら、セルヒオ・フアレス・コレア先生の奮闘と生徒たちの生き生きとした行動が描かれていく映画です。
ザラ監督の映画センスがいい…
映画は、セルヒオ(エウへニオ・デルベス)とチュチョ校長、そして生徒のパロマ、ルペ、ニコを軸に進みます。
映画冒頭はマタモロスの生活環境があまりよくないと示す映像の中でパロマ、ルペ、ニコの3人が紹介されています。
パロマはゴミ山の近くで父親と二人で暮らしています。ルペは夜勤の母親に変わり妹弟の面倒を見て家事すべてをこなしています。ニコはギャングの仲間になるために麻薬の運び屋の下働きをやっています。ルペとニコは映画の創作でしょう。
チュチョ校長はことなかれ主義の人物として登場しますが、かなり早い段階にセルヒオから校長だって教師としての希望に燃えていたことがあったはずだと説得され、またスガタ・ミトラ氏の動画を見せられてセルヒオの協力者になっていきます。
新学年が始まる8月(らしい…)です。生徒たちが教室に行きますと、セルヒオ先生が机や椅子をぐちゃぐちゃにして床に横たわり、船が遭難した、救助を求める遭難者がいる、さあ、君たちはどうする?(みたいな感じだった…)といきなりわけのわからないことを生徒に突きつけます。当然、生徒たちはポカーンです。
そんな感じから始まり、生徒たちが次第に自分で考えるようになっていく姿が描かれていきます。
という成り行きはおおよそ想像のつく話であり、これまでも映画の題材としてある種パターン化している物語です。でも、そうではあってもこの映画はどこか違います。題材はベタであっても映画自体はベタになっていません。ひとつはセルヒオを演じているエウへニオ・デルベスさんや3人の子どもたちの好演にありますが、大きいのはクリストファー・ザラ監督の過剰さのない控えめな演出だと思います。
ルペとニコを創作してはいますが、できるだけ事実を守ったものにしようとの意識を感じます。たとえばパロマを大きく扱って感動ものに仕上げることも可能なのに、ルペとニコを入れることで単純に教育だけの問題ではないことに物語を広げています。
ギャングになる以外に選択肢がないと思っていたニコはセルヒオ先生に認められることで自分にもなにかできるかもしれないと思い始めます。麻薬が入ったリュックをめぐるニコとセルヒオとのやり取りはとてもうまくできています。結局、ニコはギャングの仲間から抜けたいと思い始め、それがためにギャングとのいざこざから撃ち殺されてしまいます。
現実にもそうしたことがありうるのではないかと思える社会は子どもには過酷すぎますが、ことこれが映画であることで言えばうまいドラマ展開だと思います。もちろんこの映画がメキシコの社会問題を深く描くためのものではないという前提の話です。
ルペの描写にもそれは言えます。ルペはしっかりした子どもです。発言もしっかりしています。セルヒオからジョン・スチュアート・ミルも同じことを言っていると言われて興味を持ち、大学にその著作を借りに行き哲学の勉強を始めます。順調に行くのかと思いきや、その前に社会が立ちはだかります。母親が妊娠します。子沢山で貧しいわけですから望まぬ妊娠です。これは父親の身勝手なセックスが原因でしょうが、ザラ監督にはそうした男たちの価値観への批判があるのだろうと思います。結局、ルペは生まれた子どもの面倒をみなくてはいけないことから試験を受けられませんし、中学へ進学することもできません。
試験の開始の時間制限のカットとルペが家で赤ん坊の世話をするカットとの切り返しはとてもうまい構成だと思います。
そしてラスト、試験の結果もドラマチックに盛り上げようとすることなく、スーパーで事実を伝えるだけで終えています。
ベタさを乗り越えて…
エウへニオ・デルベスさんは「コーダ あいのうた」の音楽教師役の俳優さんです。メキシコ出身の俳優さんですが、現在はロサンゼルスに映画制作会社を立ち上げてアメリカが主要な活動の場となっているようです。
クリストファー・ザラ監督は1974生まれですから現在50歳の方です。経歴を見てみましたら、2007年に「Padre Nuestro(Blood of My Blood)」という映画でサンダンス映画祭の Grand Jury Prize(審査員大賞)を受賞しているようです。ただ、その17年前の成功から迷いが出て、その後グアテマラに移住したようなことを語っています。確かに IMDb にもこの「型破りな教室」までの間には4本のテレビドラマがクレジットされているだけです。
想像では真面目な方じゃないかと思います。この映画でもそんな感じがします。
とにかく、ベタになりそうな物語であっても実際にあったことに近づけようとするとともに描くべきことからブレなければいい映画になるということだと思います。
関係はありませんが、つい最近見た映画「小学校~それは小さな社会~」とは真逆な映画ですね。