過去と現在、現実と幻、見えるものと見えないものが出会う場所。
嵐山と四条大宮を結ぶ京福電気鉄道嵐山本線のことを「嵐電(らんでん)」と呼ぶそうです。路面電車ですね。その嵐電を舞台にした三組のラブストーリーを描いた映画です。
監督は鈴木卓爾さん、「楽隊のうさぎ」で知った監督です。今読み返してみましたら、「この映画には、すぐれたドラマが持つ瑞々しく輝くリアルさがあります」なんて書いています。ゆる~い感じの映画を撮る監督だと思います。
また、この「嵐電」は「北白川派」というプロジェクトで撮られています。公式サイトから引用しますと、
鈴木は2016年より京都造形芸術大学映画学科の准教授に就任、京都に住み込み街の空気を吸収し、『嵐電』のシナリオ開発を開始。学生と映画のプロフェッショナルとが一緒になって制作される映画学科の劇場公開映画制作プロジェクト「北白川派」で『嵐電』を制作する事になりました。
ということです。
実際の制作過程がどのようなものかはわかりませんが、学生であれプロであれ、経験の差はあっても創造性という意味では違いはありませんので、当たり前ですが出来上がったものになにか違いがあるわけではありません。
で、三組のラブストーリーですが、ひとつは平岡衛星(井浦新)と妻(安藤聡子)の物語です。平岡は、公式サイトによるとノンフィクション作家で、嵐電にまつわる不思議な話を書こうと嵐電沿線に部屋を借りて取材をするという設定です。ただ、この物書きとしての人物像はあまり重要視されておらず、それよりも、妻との関係に重点が置かれています。
平岡は、妻との関係が変わってきていると感じています。これ以上のことは映画からはわかりません。それが時の流れによるものなのか、なにか思い当たるわけがあるのか、さらに言えば、一体何が変わってきているのかも映画は語っていません。
そういう映画じゃないと言ってしまえばそれまでですが、他のふたつの物語とのカラミもなく、せっかくの作家との設定がほとんど生かされておらず、普通に旅行者でいいような人物描写です。あるいは井浦新さんの拘束時間の問題なのかも知れませんね。
いずれにしても、平岡のパートは昔二人で訪れた嵐電の思い出を重ねながら、再び昔の感情を取り戻そうという物語です。
全体を通してですが、この映画、現実とそうではない幻想であるとか想像であるとかの非現実をわりと簡単に行き来します。この平岡の物語でも妻とのシーンは、現実であったり、思い出であったり、幻想であったり、過去のフィルム映像であったりします。
最後は鎌倉の自宅のシーンで終えていましたが、ふたりの関係に変化があったのかどうかはわかりません。仮に変化したとしてもそれをはっきり見せるような監督ではないとは思います。
ふたつ目の物語は、地元の鉄オタ子午線と青森(らしい)から修学旅行でやってきた南天の話です。平岡の「衛星」もそうですが、ふたりの名前を「子午線」と「南天」としているのは、そうした名前からイメージされるものを利用しているということなんでしょう。
この物語は、嵐電に関するエピソード的なものを入れ込むためのものだと思います。実際にそうしたことが言われているのかどうかはわかりませんが、南天が子午線にストーカーまがいの迫り方をする理由に、「夕子さん電車という京菓子のマスコットキャラクターをラッピングした電車を見たカップルは幸せになれるという都市伝説(公式サイト)」を使ったり、子午線が嵐電の車両型式をつぶやきながら写真を撮ったり、白塗りのキツネとタヌキ(運転手と車掌?)の異空間の人物を登場させ、「その電車に乗ったカップルは別れる」という、これも都市伝説なんでしょうか、高校生らしい(?)恋愛遊びの物語となっています。
現実なのかどうかわかりませんが、最後、南天は子午線の高校に引っ越してきたと言っていました。そうした展開に違和感を感じない映画ということです。
そして、みっつ目の物語、これは面白いです。平岡と高校生のふたつの物語は、カラミはしませんがひとつのシーンに登場するなどしていたのに、この物語は全く関係なく進んでおり、現実感もあり、他のふたつとは異質な感じがします。
面白いと感じられる理由は、ひとえに大西礼芳さんの演技(存在感)です。
物語の基本は恋愛感情のすれ違いという極めて現実的なもので、小倉嘉子(大西礼芳)と吉田譜雨(金井浩人)が出会い、最初、譜雨が積極的になるが嘉子の気持ちが引けるという、わりとよくあるパターンなんですが、見ていて嘉子の気持ちの揺れがよくわからないのです。揺れているのはわかるのに、それがなぜだかわからないから面白いということです。わかりやすい人物で出来た映画は面白くありません。
譜雨にしてみれば、好意を持たれているかなと思い、また会えませんか?と言ってみますが、すーと引かれてしまいます。後に、嘉子自身が、何かに自信がないというようなことを言っていましたが、え? そうだったの? と思えてしまうのです。でも、実はそうかも知れないなあ、いやいや、自分に自信がなければそもそも引き受けないでしょうし、あの断り方はきっぱりしすぎているなあ、でも、こういうこともあり得るなあ…。
そんなふうに見ていて楽しませてくれるということです(笑)。
シナリオもうまく出来ています。
出会いは嵐電の中、嘉子は、下手な京都弁をひとりごとのようにつぶやく譜雨を見かけます。降りた駅は同じ、その駅には入口専用の場所があり、出られず戸惑う譜雨にそのことを教えます。ロケーションがうまく使われています。
撮影所近くのカフェ(弁当屋だと思った)で働く嘉子は、弁当を届けた撮影所で譜雨と再会します。譜雨は東京から来た俳優です。嘉子は京都弁指導を頼まれます。男女間の別れのシーンらしく、ふたりは読み合わせのように稽古を始めます。
この時の大西礼芳さんの切り替え、嘉子であることとその嘉子が台本内の女性を演じることの微妙な切り替えがいいですね。この二重構造的なつくりが恋愛における気持ちの揺れにうまく使われています。通常ではいきなりは接近できないのに演技であるがゆえにすっと近くに寄れ、ふっと覚めると急に照れや恥ずかしさが生まれてしまうというようなことです。
譜雨は京都弁を教わることを理由に嘉子を嵐山に誘います。嘉子は断りますが、次の瞬間、嘉子の中で何が変わったのか、誘いを受けます。ここがいいんですよね(笑)。
この、譜雨が誘い、嘉子が断り、でも最後は嘉子が主導権を取るような展開、同じようなことが繰り返されるのですが、このことから、そして譜雨の人物像がややぼんやりしてみえることから、この一連の出来事が嘉子の見る幻想、あるいは想像にもみえてきます。
実際、最後の待ち合わせの約束に譜雨は来ません。撮影が終わり東京に帰ってしまった、と、映画の中の助監督から聞かされます。そして、その助監督から、私が映画を撮る時、出演してくれませんか?と誘われます。嘉子は、譜雨が出るのであれば、と答えます。
で、ラストシーン、その助監督が撮る映画の撮影シーン、あれは桂川の河畔でしょうか、嘉子と譜雨のラブシーンだったか、別れのシーンだったか、多分譜雨が嘉子に京都弁を教わっていたシーンなんだと思います。間違っているかも知れませんが、それですと映画になりますね(笑)。
現実と非現実の境界の曖昧化、ちょっと言葉が硬いですね。言い換えれば、実際に見るもの、見えるもの、想像するもの、記憶しているもの、そうしたものが人間の中では全てつながっているということだと思います。