ルノワール

鈴木唯さんに頼りすぎて失われたもの…

前作「PLAN75」が2022年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門でカメラドールのスペシャルメンション(特別賞)を受賞した早川千絵監督、この「ルノワール」は今年2025年の同じくカンヌのコンペティションに出品されています。誰か強く推す人がいるということなんでしょう。

ルノワール / 監督:早川千絵

早川千絵監督11歳の記憶と妄想…

PLAN75」とはまったく傾向が違います。「PLAN75」は75歳になれば自ら死を選択できるというディストピアを描いた、言うなればつくられたドラマでしたが、この「ルノワール」にはプロットという意味でのドラマはなく、11歳の少女が家族や世の中に接するその様子が日記風に並べられていくだけの映画です。

ですので率直なところ面白くはありません。

おそらく早川千絵監督の子ども時代の記憶や妄想がかなり反映されているんだと思います。そうじゃなければこんな映画を撮ろうとは思わないでしょう。

時代背景は「日本がバブル経済絶頂期にあった、1980年代のある夏(公式サイト)」とありますので1980年代後半でしょう。

早川監督が1976年生まれで映画のフキが11歳ですので、1987年、ぴったりですね。

PLAN75」からはもっと若い監督の印象を持っていました。現在48歳、3年前の映画ですので、43、4歳の頃に撮っていることになります。映画の内容や映画づくりからは20代の監督の映画かと思っていました。ウィキペディアで経歴を見ますと映画制作に入ったのが30代半ばだからのようです。

映画づくりは格段にうまくなっているが…

PLAN75」の感想には真面目さは感じるが映画のつくりがうまくないと書いたんですが、この「ルノワール」は映画のつくりが格段にうまくなっています。

説明的なシーンがなく、それぞれのシーンの画に何某か意味が感じられます。ただ、それが持続しないんですね。11歳の少女の日記を読んでいるようなものですから仕方ないですかね。なにか一本軸となるものを取り入れておけば映画のレベルが数段上がっていたと思います。

連続しているという意味での物語はいくつかあります。

まず家族の話、父親(リリー・フランキー)が癌で闘病中であり、映画は自宅療養中に倒れて入院するところから始まっています。母親(石田ひかり)は仕事を持っており管理職の立場ですので金銭的な問題はありません。

フキ(鈴木唯)は感情が表に出ることはほとんど(まったく?…)ありません。父親や母親であっても見ず知らずの他人であっても距離感が同じであるように描かれています。ですので父親の病気や死に対して悲しさは描かれませんし、口うるさい母親に対しても反抗やいらだちを見せることはありません。

同じマンションの女性(河合優美)の部屋に入って親しく話をしたりもしますし、出会い系伝言ダイヤルに電話して成人男性に誘われて家にまでついていったりします。

この出会い系伝言ダイヤルのシーンをなぜ入れているのかはよくわかりません。その男性は明らかにペドフィリアですし、映画ではその男性の母親が予定を変更して帰ってきたことで事なきを得ていますが、なぜこのシークエンスだけこんなにつくりもの臭くしているんでしょう。

こうしたある種大人の歪んだ行為は、ぼんやりではありますが他にもいくつか描かれています。

フキが見ているシーンとして描かれていたかどうかは記憶していませんが、母親の不倫、英語教室で親しくなる同年代の子の家での写真の件も不倫じゃないかと思います(違っているかも…)。同じマンションの女性(河合優美)の夫もペドフィリアだとその女性は言っています。

早川監督にはなにか意図があるんでしょうが映画からはわかりません。

不可解な大人たちと「死」…

伝言ダイヤルにしても大人たちの不倫にしても、フキにはそのものとして見えているわけではなく、不可解な大人として見えているという描き方をしているんだと思います。

われわれ観客にはそれとわかるけれども、フキにはわれわれが思うような意味に直結していないという描き方がフキの無表情さ(表情に出ないという意味…)に出ているのでしょう。

母親の不倫相手の男(中島歩)の車の周りを自転車でぐるぐる回ったりするシーンや友だちの女の子の家での行為などがそれを示しています。

という、とにかくはっきりしないシーンが多い映画ですし、映画を見ながら追っていくべき物語がありませんので飽きてくるという映画です。

ただ、ひとつだけ早川監督が囚われているようだと思われるのが「死」というものです。

フキの父親は闘病生活の末、映画の最後には「死」にますし、それを聞いた英語教師は自分の父も亡くなっていると言って泣き始めます。同じマンションの女性の夫はベランダから墜落して「死」んでいます。ペドフィリアの男とのシーンにも「死」の匂いが漂っています。

映画冒頭、あまりはっきりとは記憶していないのですが、フキの夢なのか妄想なのか、フキが自宅のゴミをマンションのゴミ置き場に持っていき、そこで成人男性に声を掛けられるシーンからテレビの少女殺人事件のニュース(だったと思う…)に切り替わるという始め方をしています。

大人たちの不可解さと死、11歳の早川千絵さんには世界はそう見えていたんだと思います。

残念ながら、映画づくりは格段にうまくなっているけれどもというところに留まってしまっている映画です。鈴木唯さんに頼りすぎた結果でしょう。