シュールな近未来か?アンチテクノロジーか?
予告編からはもっとシュールな映画を想像していたのですが、思いのほか感傷的で叙情的な映画でした。
2020年のヴェネツィア映画祭のオリゾンティ部門で上映され、コンペティション部門の審査委員長のケイト・ブランシェットさんが評判を聞きつけて鑑賞し、エグゼクティブ・プロデューサーへの就任を買って出たという映画です。
近未来か? アンチテクノロジーか?
監督はギリシャのクリストス・ニク監督で、この映画が長編デビュー作ですが、すでに2作目をハリウッドで撮ることが決まっているようです。ケイト・ブランシェットさんの制作会社ダーティ・フィルムズの制作でブランシェットさん本人もプロデューサーとして関わり、キャリー・マリガンさんの主演が決まっているようです。IMDbには「Fingernails」のタイトルでアナウンスされており、Summaries を読みますと同じくキャリー・マリガン主演の「プロミシング・ヤング・ウーマン」のようなラブコメ&ラブミステリー&ラブサスペンスが予想されます。
で、この「林檎とポラロイド」です。
ある日、男(アリス・セルベタリス)が乗り越したバスの中で目覚めますと、自分が誰だかもわからなくなっています。記憶喪失です。医師たちは男に治療のためのプログラムとして、いくつかの行為を実行し、それをポラロイドカメラで撮りアルバムに整理するよう指示します。
その指示はその度ごとにカセットテープで送られてきます。「自転車に乗る、仮装パーティーで友達をつくる、ホラー映画を見る、10mの飛び込み台からダイブする、車を運転しわざとぶつける、バーで酒を飲み女を誘う(公式サイト)」といった、それぞれには目的や関連性があるようにはみえません。男はその指示を淡々とこなしていくわけですが、その過程でこの記憶喪失はこの男だけではなく世の中に蔓延していることがわかってきます。
という一見無意味に見える男の行為が8割方続く映画です。その意味ではシュールとも言え、未知のウイルスが人間の記憶を奪っていくような近未来映画にも思えてきます。
ただ、いわゆる文明の発展という意味でのテクノロジー感はまったくなく、逆にアナログ感満載です。医師からの指示はカセットテープが郵送されてきますし、ポラロイドカメラ自体がそうですし、オープンテープレコーダーまで登場させています。音楽もクラシックであったり懐メロ的な曲も使われていたと思います。ダンスもツイストです。
おそらく、クリストス・ニク監督の意識としてはテクノロジー社会である現代に対するアンチテーゼとしての近未来感覚、いうなればディストピア的なものがあるのだと思います。具体的に言えば、ネット上にあふれる写真、フェイスブックやインスタの写真によってパーソナリティが形づくられ、それによって記憶まで書き換えられる可能性があるのではないかということです。もちろん映画のトーンとしてはソフトタッチでありオフビートですので、そうした主張が前面に出ているわけではなくテクノロジーに対して懐疑的な意識を感じさせるということです。
スクリーンサイズを4:3のスタンダートサイズにしていることも同様の意味合いだと思います。ただねえ、最近の映画館はカットマスクをしませんので、左右の白っぽい部分が気になって見にくいんですよね(涙)。
オチ待ちにならざるを得ず…
というのがこの映画の表の顔なんですが、映画の中程からちらちらと、おや?と思わせる異質なできごとが挿入されています。それが最初に感傷的で叙情的と書いたことであり、映画のオチになっているということです。
男はいろいろな行為に対してまったく感情的なものを感じさせません。映画的にも変化はありませんし、それぞれの行為が脈略なく続いていくことになりますので見ていても飽きてきます。次第にどうやってオチをつけるんだろう?とオチ待ちの気分になってきます。
私が気づいたのは、オレンジと犬のどちらが先だったかやや曖昧ですが、確かオレンジが先で、くだもの屋の店主に林檎には記憶力を回復させる効果があると言われて、それまで林檎ばかり買っていた男がオレンジに替えたことで、ああ記憶を回復させたくないんだなあと思い、公園で男になついている犬に擦り寄られて飼い主に気づかれないようにと逃げるところで、ああ記憶を失っているのではなく、記憶を捨て去りたいのだなと思い、そしてそれはなぜなんだろう?と後はオチを待つだけになったということです。
それまでにもフリはありますがさすがに気づくのは無理です。まずファーストシーン、暗闇でドン、ドンと音がします。明るくなりますと男が壁に頭をぶつけている音です。男の絶望の行為だったのでしょう。男がアパートメントから出てきますと、近所の犬がすり寄ってきます。男は犬の名前を呼び優しく撫でて飼い主に挨拶をして街へ出ていきます。そしてバスの中で記憶を失うシーンに続きます。
また、回復プログラムが始まった最初のころにくだもの屋に出掛け、住まいは近くか?と尋ねられ、1〇〇番地と答え、すぐに◯番地と答え直しています。このシーンではふとしたことで記憶が戻っていく展開かと思っていましたが、ついつい実際の番地が口から出てしまったということでした。
どういう意味合いが込められているのだろうとよくわからないシーンもあります。
映画の中ほどで同じ回復プログラムを実行している女性と出会います。女性の方からプログラムの実行に手を貸して欲しいと頼まれ行動をともにするようになります。ある時、クラブで踊っている時に女性からトイレに来てと誘われセックスします(画はない)。まったく感情表現がありませんのではっきりはしませんが、その後男が女性の住まいを訪ねるも留守のシーンがありますので男に何らかの気持ちの動きがあったのだと思います。そして、さらにその後、男に新たな指示としてクラブで踊り男で女でも誰かとセックスすることとの指示が来ます。男がそれを実行するシーンはありません。男が買い物から帰りますと、女性が男の住まいのベルを何度も鳴らしています。男は木の陰に隠れます。女性は帰っていきます。男が料理をしている最中にベルがなります。その女性です。女性が入れて欲しいと言いますが男は忙しいと言い追い返してしまいます。
男が女性とともに車に乗り、車を木に追突させる行為の途中の車の中で口ずさんでいたのは「涙の口づけ」だったと思います。何を意図した選曲なんでしょう。
そして、感傷的なオチへ
結局、男は妻(だったと思う)を失った記憶を消したかったということです。
男は自分のアパートメントに戻り、ドアを壊して(ではないけどそのニュアンス、すべて捨てているので鍵はないということだと思う)中に入り、その後花を持って墓に向かいます。そう言えば、記憶喪失をよそおう前のどこかのシーンで花を持っているカットがあったと思います。
エンドロールに〇〇・ニクに捧げるとスーパーが入っていました。監督のお父さんのようです。