リング・ワンダリング

三つの時空の融合が中途半端で惜しい

率直なところ、始まって1/3あたりまではあまりの素人臭さに(感じたということでペコリ)なぜこれが劇場公開?とため息をこらえて見ていたのですが、後半の現代の写真館あたりからは、ん? そうでもないかと気を入れ直して見た映画です。

いきなりこんな書き方でゴメン、問題は多いと思いますが悪くはないです。

リング・ワンダリング / 監督:金子雅和

土地には記憶が眠っている

2020年くらいの現在の東京と太平洋戦争末期の1945年くらいの過去の東京が出会う映画です。それが後半になってやっとわかるということです。

その媒介をするのは漫画家志望の草介(笠松将)です。その草介がふたつの時空を行き来しますので一見タイムスリップ、あるいはタイムリープのようにもみえますが、どうもそうではなさそうです。

素人臭く感じたわけはいろいろあるのですが、そのひとつは、そのそうでもなさそうさが前半にうまく表現されていないために草介という人物の位置づけがはっきりしていないことです。

とにかく、出会うとはどういうことかといいますと、まずファーストシーン、草介は河川敷の草むらでレトロなカメラを持った少年と出会います。少年は草介の写真を撮ります。

草介は漫画家志望で、昼間は建築現場でバイトをしており、そこで埋もれた動物の頭蓋骨を見つけます。今書いているニホンオオカミの漫画の参考にしようとしたのですがうまくいかず、夜、再び建築現場に行き、そこで迷子の犬シロをさがす少女ミドリ(阿部純子)に出会います。

ミドリが足をくじいたためにおぶって家に送り届けますと、そこには「川内寫眞館(左右逆書き)」の看板が出ています。ミドリの家族は父親と母親、そして今は田舎に疎開している弟の黄太です。シロを可愛がっていた黄太が寂しがると聞いた草介は、しっぽはこう、首輪はこうと聞きながら想像でシロの絵を描いて置いてきます。そして別れ際、ミドリは木の枝を手折り、私を忘れないでねと手渡します。

翌日、草介は建築現場で犬の首輪を見つけます。首輪を手にミドリを送った道順をたどりますと、そこには「川内写真館」があります。ミドリさんはいますかと尋ねる草介に店の女性はミドリは叔母ですと言い、今は寝たきりになっている父親に会わせてくれます。草介はベッドの脇に貼られた絵を見てはっとします。そこには黄ばんではいますがまさに自分が書いたシロの絵が貼られているのです。首輪を渡しますと老人はシロ…とつぶやき、両親と姉は空襲で死に、絵は疎開先に送ってくれたのだと言います。

草介は写真館の女性から写真アルバムを手渡されます。これが私の父親の子どもの頃と指差す先にはあの河川敷で出会った少年がいます。そして、ページをめくっていきますと、ミドリや両親の写真とともに草むらにたたずむ草介自身の写真が貼られているのです。

という現在と過去が特別時空の移動という表現なく描かれています。草介もそのことに特別違和感を感じさせません。演出なんでしょう。

当然、草介がミドリと出会うあたりからなにか変だなという気配は感じますし、「川内寫眞館」で、ああ過去かとはわかりますが、それがどこへ向かっているかがわかってくるのはやはり現代の「川内写真館」あたりからです。

ああ、やろうとしていることはタイムスリップでもタイムリープでもなく、タイムメモリーとでもいうべきその地に記憶されている過去を草介が体験することなんだということです。

ニホンオオカミと猟師

この映画にはもうひとつの時空があります。草介が書いている漫画の世界です。

草介が書いているのはニホンオオカミと猟師を題材にした漫画です。草介が建築現場で見つけた動物の頭蓋骨を持ち帰るのは、ニホンオオカミをうまく書けずにいたために参考にしようとしたからです。あるいはニホンオオカミの骨と思ったのかもしれません。

ところで、最初に素人臭さを感じたのはその建築現場のシーンです。これがまったくよくありません。台詞が説明ゼリフな上にうまくかみあっていないですし、現場監督が意味不明ですし、現場作業がウソっぽくてかなり引きます。

そしてさらにそれに追い打ちをかけるのが、骨を持ち帰り参考にしながら漫画を書く草介のシーンです。漫画のひとコマのアップからそれが実写になります。

おそらく時代はミドリの時代と同じか少し前くらいでしょう。山の集落で、村人たちが家畜(鶏か?)が襲われて困っているという設定だと思います。そこに猟師の銀三(長谷川初範)やってきてニホンオオカミのせいだと言います。村人たちはそんなはずはない、ニホンオオカミはもう絶滅していると言っています(多分そんな感じ)。

という芝居が繰り広げられるのですが、これがまるで学芸会のよう(ゴメン)なんです。工事現場と同じように台詞がよくありません。

ファーストシーンの草介と子どもが出会う河川敷のシーンにしても、草介がニホンオオカミを求めて(だと思うが)山奥、まさに山奥に入り、何かの気配にそれを追い掛けて岩場を登るその次のシーンが川の河口の河川敷のカットというのはさすがにいただけません。

そして、その後が工事現場、さらに漫画を書くシーンから漫画の実写シーンへと続くわけです。

漫画の内容が浮いている

東京の下町の過去現在と漫画の内容の結びつきに無理矢理感が漂っています。

ニホンオオカミと犬なんでしょうか、絶滅したニホンオオカミと空襲でなくなった人々ということでしょうか、とにかくしっくりきていません。

とにかく、ラストは、漫画を書く草介、再びニホンオオカミを書こうとし、ふとミドリから手渡された木の枝をペン代わりに手に取り漫画を書き始めます。そして、シーンは再び漫画の実写へと変わります。

銀三がなぜニホンオオカミに執着しているのかははっきりしませんが、ひとつありそうなのは、ニホンオオカミを捕獲しようと罠を仕掛け、あやまって自分の娘の梢を亡くしていることです。もちろん漫画の中の人物ですので草介が創作した女性です。その梢とミドリは安倍純子さんがふた役で演じていますのでそこでも無理やり話を結びつけようとしたんだと思います。

で、銀三は山奥へ山奥へと入り、ついにニホンオオカミと間近に相対します。そして猟銃を構えもう一歩出ようとしたその時手を掴まれ引き止められます。振り向きますと梢(このワンシーンだけ)です。そして足元を見ますとそこには岩もなく一歩踏み出せば崖から真っ逆さまだったということです。

さらに、ニホンオオカミのオチへ

書いていませんが、ファーストシーン、河川敷で出会った子どもは草介にニホンオオカミはきっといるよと言って去っていきます。

草介は再び河川敷を訪れます。やっぱりいないじゃないかと言い、そしてそこに横たわります。カメラがぐーと引き上空からのカットに変わります。草介が横たわっている河川敷の草むらがニホンオオカミを頭部にみえてきます。

シナリオの再考を

一番の問題はニホンオオカミの話とミドリの話がうまく融合していないことです。どちらが先に発想されたのかはわかりませんが、やはり無理矢理感が解消されていません。

群衆の描き方を研究すべきです。あるいはやめるべきです。この映画のトーンでいけば建築現場などなくてもわかります。

ミドリをもっと生かすべきです。ふた役なのに梢の登場はワンカットだけというのはふた役の意味がありません。

それぞれの時空の物語をもっと深めないと単に上っ面で結びつけているだけにみえてもったいないです。

などといろいろ書きましたが、なにか感じさせるものがありますので「アルビノの木」を見てみようと思います。