文の非実在感は女の妄想か
2020年の本屋大賞の凪良ゆう著『流浪の月』の映画化です。主演は広瀬すずさんと松坂桃李さん、共演は横浜流星さん、多部未華子さん、趣里さんといったところです。
真実は誰にもわからない
15年前の女児誘拐事件の加害者と被害者がその15年後に再会するという映画です。ただ映画は最初からその事件が世間からみれば誘拐事件ではあっても、被害者である女児が望んだことであり、加害者にもわいせつ行為等を加える意志はないものとして描いていますので、大人になったふたりを再会させてどうするんだろうとちょっと不安を感じる映画でした。
不安? これは恋愛だと言うんじゃないかと怖かったということです。
さすがにそこまでは言っていませんが、女児が成長した15年後の更紗(広瀬すず)は加害者とされた文(松坂桃李)への思慕を捨てきれないでいます。なかなか危ない状態の連続なのですが、ただ文のほうが最後の最後までどういう人物なのかよくわからなく進んでいきます。
で、最後、え? そこへいくのかい?!というオチが用意されていました。
ということで、最後までどこへ向かっているのかよくわからない映画だったのですが、あえて映画にテーマと言えるものがあるとすれば、いや、あります、あります(ペコリ)、個人の意志と世間の視線のズレにより個人が居場所を失うということのようで、それがタイトルの「流浪」の意味ということでした。
多くの場合、個人の意志は世間からは無視されるものですが、そこに真実があるとすれば、真実は誰にもわからないということでもあります。
なぜ文は更紗を招き入れたのか
雨にずぶ濡れになりながら公園でたたずむ少女がいます。文(松坂桃李)は、大丈夫?と声をかけ、帰りたくないという少女に家に来る?と自分の住まいに招き入れます。少女更紗は、叔父叔母の家で暮らしており、その家の中2のいとこが夜に自分の部屋にやってきて性的暴行を加えると語ります。文は更紗に、君のすべては君のものだ、誰もそれを脅かすことはできない(こんなような意味のことを)言い、いたければいつまでもいていいとも言います。
しかし、2ヶ月後、文は女児誘拐事件の犯人として逮捕されます。
2ヶ月間のシーンでは、食事の際に更紗がアイスクリーム食べたいと言い、文がいいと許し、それを更紗が喜ぶシーンや文が「ポー詩集」を読み更紗が「赤毛のアン」を読むシーンなどがあります。食事のシーンでは文が味噌汁とご飯といった料理を作ったり、更紗にアイスクリームを食べさせる最初のシーンではわざわざそれ用のグラスに入れて出していましたので、そうしたところから文の人物像を描こうとしていたんだと思います。
ただ、そうではあるのですが、だからといってそうしたことから文の人物像がみえてわけではありません。文がどういう人物なのかは最後の最後までよくわかりません。そもそもなぜ更紗を自分の住まいに招き入れたのかもわからないまま最後までいきます。
現実的な更紗と存在感のない文
この映画は更紗(広瀬すず)と文(松坂桃李)のふたりだけの映画です。
更紗には亮(横浜流星)という一緒に暮らす恋人がおり結婚云々という話もでますが、役割としては更紗に現実感を与えるための存在であり、実際、更紗へのDV、ストーカー行為、そして文の過去をネットにさらしたりと実在感のある人物として更紗に対して、それにより更紗が現実的な存在として浮かび上がってきます。
一方の文にはあゆみ(多部未華子)がいます。2、3シーンしか登場しませんし、どういう人物かも何も描かれません。これは文そのものに実在感がないことの反映でしょう。あゆみは文と更紗のことを知り去っていきます。その際、だから(つまりロリコンだから)わたしとはやらなかった(セックスを)のねと言っていました。
とにかく、文そのものがファンタジーです。アンティークショップの2階で隠れ家のようなコーヒーオンリーの店をやっているという設定です。アンティークショップのオーナーのような人物がワンシーン登場しますがそれっきりで、文の存在が世間にあからさまになった時にはそのアンティークショップの入り口に変態だのロリコンだのと落書きがされます。アンティークショップは関係ないんだからそんなことはしないんじゃないのとは思いますが、そうしたこともさらりと流せる程度に文の存在自体がファンタジーだということです。
おそらくですが、これは文という人物が原作作者である凪良ゆうさんのファンタジーそのものだからじゃないかと思います。
現代病理のオンパレード
更紗はファミレスで働いています。同僚にシングルマザーの佳菜子(趣里)がいます。佳菜子に誘われて立ち寄ったカフェで文に出会います。更紗にはいらっしゃいませの声だけでわかります。映画的には文もわかっているようにはつくられていますが映像的には全く反応しません。更紗はそのカフェにたびたび立ち寄るようになります。
結婚を考えている亮(横浜流星)は更紗の変化に気づきストーカーとなります。そもそも(というのも変だが)亮は母親が自分を捨てていなくなったことからマザコンとなり(ちょっと安易)、DV素質があるという人物です。そして、文を突き止め、ネット上にさらします。それがかえって更紗と文を近づけることになり、DV行為によって更紗に去られてしまい、リストカットにおよぶということになります。
更紗は文のもとに向かい、その後、文の隣の部屋で暮らすことになります。まあ、そう簡単にはいかないでしょうとは思いますが、タイトルに書いたとおり、現代病理オンパレード状態の映画になっていますのでさほど気にはなりません。
ここで更紗の同僚佳菜子が登場します。佳菜子は娘を更紗に預けて新しい恋人と沖縄へ行ってしまいます。3泊程度の予定と聞いていたものがいつまでたっても帰ってきません。そのうち、文のことが世間に知れ渡り、更紗がロリコンの文に女児(佳菜子の娘)をあてがっているなどと騒がれます。
15年前の再来です。文が逮捕されます。更紗がどんなに説明しても(というほどシーンはないが)警察も世間もわかってくれません。
ロリコン、マザコン、DV、ネグレクト、リストカット、炎上、この映画には現代病理といわれるものがつまっています。
文の病理はなんなのか
更紗は幾度も「私は可愛そうな子じゃないよ」と言います。つまり、女児誘拐事件で何らかの性的な暴行を受けたこともないし、世間はそう見るかも知れないけれどもそうじゃないよと言い、そうした自分の過去が世間に知られており、同僚たちもそれを知っていることもわかっており、時にそれが話題にされたりすることも受け入れて生きている人物として描かれています。
さらに、文と再会した際には、あれこれあるにしても、文こそが自分にとって大切な人であるとして、自ら文のもとに向かいます。
しかし、文がはっきりしません。
文は最後まで意志というものを示しません。あゆみ(多部未華子)に対しても、更紗に対してもなんの意志も示しません。そのわけが最後に明かされます。
文は更紗の前ですべてを脱ぎ捨て裸になり、自分の性的(性器?)コンプレックスを告げます。
よくわかりませんでしたが、勃起不能ということなのか、性器に何らかの異常があるのか、単なるコンプレックスなのか、いずれにしても本人が15年前の更紗に言っていた「誰にも知られないことがある」言っていたことであり、死にたいと思えるほどのことだということです。
文は女の妄想か
で、この映画はなんなのかですが、最初に書きましたように個人が世間(社会)の眼によって居場所を失いさまようという物語なのは間違いないと思いますが、それにしても、更紗という女性に実在感があるにもかかわらず、文という男性の存在がおぼろげで掴みどころがないというのがとても気になります。
15年前の事件は、社会認識の上でも、おそらく法律上でも、もちろん倫理的にも犯罪(的)行為です。個別には一概にそういえない場合もあるにしても、どんな場合でも、家に帰りたくないという子どもがいるとしても個人の住まいに招き入れてはいけません。
この映画は事件を犯罪行為として描かない代わりに文という男性の実在感を消しているのではないかと思います。逆かもしれません。男性の実在感を描けない(描かない)がゆえに犯罪行為として描かなくてもいい余地が生まれたのかもしれません。
それが原作のものだとすれば、文は女の妄想ということだと思います。