サントメール ある被告

ヒロシマ・モナムール、王女メディア、そして母親とは何者か…

昨年2022年のヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞の審査員グランプリを受賞しています。現在、この映画の公開に合わせてアリス・ディオップ監督が来日されており、前作のドキュメンタリー「私たち」も上映されるようです。

サントメール ある被告 / 監督:アリス・ディオップ

母親とは何者か…

びっくりするくらいメッセージがはっきりした映画です。

テーマは、母と子、言い換えれば母親とは何者かということです。

作家であり大学教授のラマ(カイジ・カガメ)が、生後15ヶ月のわが子を殺した女性ロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)の裁判を傍聴するという物語です。

事件自体にはベースとなっている現実に起きた事件があります。2013年にファビエンヌ・カブー(Fabienne Kabou)という女性が、ベルク・シュル・メールの海岸の満潮時に生後15ヶ月の娘を置き去りにし、その後死体で発見されたという事件で、アリス・ディオップ監督は実際にこの裁判を傍聴したそうです。ですので、おそらくラマには監督自身が反映されているということだと思います。

現実の裁判では2016年に懲役20年の刑が言い渡されたそうです。映画の裁判シーンは弁護人の最終弁論で終わっており、弁護人が堂々たるカメラ目線で主張を述べますので、それがアリス・ディオップ監督のメッセージであることは間違いないでしょう。

ただし、映画のスタイルは法廷劇であっても、事件の内容が明らかになっていくようないわゆるサスペンスものではなく、映画の主題はあくまでも傍聴するラマの側にあります。実際、ラストシーンは法廷シーンの後のラマと母親のシーンで終わっています。

そしてもうひとつテーマと言えるものがあります。主演俳優ふたりがアフリカ系の女性であることからわかるように、明確にアフリカ系の黒人ということが意識されています。ただ、いわゆる差別といった社会的なことを問題にしているのかどうかがよくわからず、あるいはフランス社会で生活していないとわからないものがベースにあるのかもしれません。

アリス・ディオップ監督は、両親がセネガルから移住したセネガル系フランス人です。パリ郊外の移民が多く住むバンリューで育ったとのことです。

ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)

ラマ(カイジ・カガメ)がうなされて目覚めます。パートナーのエイドリアンから「ママ…ママ…」とうなされていたと聞かされます。

その後、ふたりはラマの母親を訪ねて3人(2人か…)の姉妹とともに食事をとるのですが、このシーンのラマはどこかおどおどして落ち着きがありません。エイドリアンも怪訝な表情を浮かべています。

とても違和感のあるシーンで、どういうことだろう、いずれ明かされるのだろうと思っていたのですが、残念ながら映画は教えてくれません。ただ、その後数シーン挿入されるラマ10歳くらいのフラッシュバックやラストシーンから想像しますと、母親との意志の疎通がうまくいっていなかったということでしょうし、ラマは母親を恐れていたか嫌っていた(表向きですが…)のでしょう。それにフラッシュバックのシーンの一部に字幕のつかない会話があり、あれはウォロフ語だったらしく、そうしたことから考えますと、ラマと母親の関係は、裁判で明らかになるロランスと母親の関係と同じであり、映画のつくりとしては、裁判の経過とともにラマ(妊娠している…)が自分をロランスと同一化して不安にかられていくところを描いているということになります。

ラマが大学でマルグリット・デュラスに関する講義をしています。第二次世界大戦終戦後、ドイツ人と関係を持ったフランス女性たちが丸刈りにされて街中を引き回される映像が流れています。よく知られた話で、映像はYouTubeにたくさんあります。マルグリット・デュラスは「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」の脚本を書いており、その中の女性がそうした過去をもつ設定となっています。

ラマの人物像、要は高学歴であることを見せているのだと思います。マルグリット・デュラスを選択していることからも何となくディオップ監督の価値感のようなものが伝わってきます。

その後は法廷シーンとなり、陪審員(参審員)の選任シーンから始まります。ただその後選ばれた陪審員が何かの役割を果たすようなシーンはありませんので、なぜあんなにもていねいに描いたのかは疑問です。

この映画、いわゆる見慣れたドラマパターンを予想してみていますと、どこかしっくりこない感覚にとらわれます。その後も裁判官の質問に被告のロランス・コリー(ガスラジー・マランダ)が答えるシーンが延々と続きます。長回しも結構多いです。ロランスの生い立ちや成長過程、母親との関係などかなり詳細に語られます。

なのに、なぜか何事もはっきりしないまま最後までいきます。

事件の詳細は物語としてはさほど重要ではないのですが、ロランスは子どもとともにサントメールに向かい、その夜海岸に子どもを置き去りにし、翌日パリに戻ります。後日子殺しの容疑で逮捕されます。ロランスは子どものことは誰にも告げずに密かに生み、出生届も出していません。父親は30歳ほど離れた男性であり、証人として法廷に立ちますが、ふたりの言い分は食い違っています。男性は愛し合っていたと言い、子どもとの散歩に出たりしていたと言います。ただ実際は子どもも認知しておらず、ロランスの存在自体も公にはしていなかったということです。ロランスの男性に対する気持ちは鋭い視線を投げつけることで表現されています。

ところでその男性ですが、50歳代の設定なのに見た目は70歳代にも見え、あれは意図的なキャスティングじゃないかと思います。この映画、とにかく男性は置いてけぼりです。

裁判官がロランスになぜ子どもを殺したのかと尋ねます。ロランスはわからない、それをここで明らかにして欲しいと言います。ロランスはこの手の映画のパターンの母親ではありません。後悔や悲嘆といった感情的な演技は一切ありません(1ヶ所ありましたが、どうでしょう…?)。裁判官の質問に堂々と答えていきます。

ロランスはセネガルで生まれ、フランスでの成功を願う母親はロランスにウォロフ語を話すことを許さず(ラマのフラッシュバック…)完璧なフランス語を身につけさせます。父親の支援で法律を学ぶためにフランスに留学、叔母の家に同居するも仲違いがあり、自立しようとするもうまくいかず、また勉学の対象を哲学に変えたために父親の支援を打ち切られ、30歳近く離れた彫刻家の男性と知りあり、同居し、そして子どもが生まれます。

という事件なんですが、とにかく裁判のポイントがつかめません。字幕のせいもあるかもしれませんが、何を争っているかもはっきりしません。司法制度の違いもあるのでしょう、日本の裁判ですと、あんなに裁判官が被告に詳細に質問することはないように思いますし、そもそも証拠の確認や認定といった作業も行われずに、まるで精神分析のような法廷シーンです。

ということからすれば、やはりロランスに語らせていることはラマの内面であるということだと思います。

異文化論争のようなもの…

一部、異文化論争のようなやり取りもあります。

呪術が持ち出されます。映画の中では前後の脈略がはっきりせずにいきなり持ち出される印象ですが、現実の事件のウィキペディアに「Kabou spent €40,000 euros seeking help from “witchdoctors and healers” before the murder.(カブーは子どもを殺す前に呪術師や心霊師に4万ユーロを費やした)」や精神科医がカブーについて「suffering from “paranoid delirium”(妄想性せん妄に苦しんでいる)」との診断を下しているとの記述があります。

アフリカ=呪術という西欧的偏見からのものかもしれません。

ただ、この呪術の件は混乱も見られ、予審でロランスが主張したことなのですが、それを裏付けるものが一切なく、検事(でいいのかな…)から嘘つきと糾弾されています。

もっとも別のシーンでは、証人として出廷した予審判事からの指摘に対して、ロランスは自分は西欧的合理主義者(字幕…)だと主張していました。呪術であるとか合理主義者であるとか、こうした混乱には被告としてのリアリティがあります。ちなみにロランスの哲学の研究課題はヴィトゲンシュタインと言っていましたので、その点でも合理主義者というわけではないとは思います。

それはともかく、こうしたやり取りにはアフリカ=呪術という偏見で事件を片付けられることに対するアリス・ディオップ監督の怒りのようなものが込められているのでしょう。こうしたところに、最初に述べたアフリカ系に対する社会的差別というパターン化された表現ではないアフリカ系黒人のアイデンティティの主張のようなものがこの映画には感じられます。

王女メディアとキメイラ(キマイラ)

ラマは、現在ギリシャ悲劇の「メディア」に関する本を執筆中です。ホテルでピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「王女メディア Medea」を見るシーンがあります。

「メディア」は言わずと知れた夫への復讐劇で、最後には夫を苦しめるためにわが子ふたりを殺してしまう女性の話です。ですので、いくら子殺しの話とはいえ、この映画に持ち出すのはちょっと無理があるようには思います。

とにかく、ラスト、弁護人の最終弁論です。

弁護人が陪審員(参審員)に向かって、つまりはカメラ目線で最終弁論を始めます。弁護人はキメラ(同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態…(ウィキペディア))を持ち出し、女性は皆キメイラだと言います。あまり詳細には記憶していませんが、要は子どもを宿すということは子どもに母親の細胞が混ざりあい、また子どもの細胞も母親に残り、つまりは母と子どもは無限につながっているものだと主張します。

ん? 今書いてみて、なぜこれがロランスを弁護する最終弁論になるのでしょう?

女性へのメッセージ

このブログの最初に「びっくりするくらいメッセージがはっきりした映画」と書きましたが、実はメッセージそのものははっきりしているわけではなく、母親になることがいかに大変なことなのかが、まさにその最中にある人に、あるいはそのことを考え、思い悩んでいる人に伝わるだろうという意味に置いて「びっくりするくらい伝わる映画」ということです。

裁判シーンの後には、ラマが母親を訪ね、ふたりが何も言わずにソファーに座っているシーンになっています。ふたりの手はしっかりと握られています。