正欲

あってはいけない感情はない、そりゃそうだけど小児性愛どうするの…

朝井リョウ著『正欲』の映画化です。監督は「あゝ、荒野」「前科者」の岸善幸監督です。今年2023年の東京国際映画祭で最優秀監督賞と観客賞を受賞したようです。

正欲 / 監督:岸善幸

シナリオがよくないのではないか…

この映画をみても原作が見えてこないですね。原作は、ざっとググったところでは結構評価も高く柴田錬三郎賞も受賞しています。こういう当て字的な言葉を使うセンスには抵抗がありますが読んでみようかと思います。

映画はかなり散漫でいっこうに基本の軸が見えてこず、どこへ向かっているのかもはっきりしません。やっとラスト30分くらいでなんとなく見えてはくるのですが、ただ見えてきたとしても、じゃあ、これまで3人以外にあれこれ名前を出していた人物たちは何だったの? と思います。

3人とは、夏月(新垣結衣)、佳道(磯村勇斗)、啓喜(稲垣吾郎)です。

この3人に絞ってもっと突っ込んで描けばいいのにと思います。

軸が見えてこないとは言っても、もちろん、そのひとつは多様性、というところまで突っ込まれていませんので人それぞれということにはなりますが、そして、繋がりたい願望、つまりは人はひとりでは生きられないという、このふたつだということはわかります。

問題は、多様性を語るのに「水フェチ」はいい題材なのかということじゃないかと思います。

水フェチ夏月

本当に原作も「水フェチ」が基本テーマなんですかね。と言うよりも、私がこの映画を見て「水フェチ」がテーマと考えたほうがおかしいんでしょうか(笑)。

夏月(新垣結衣)は、自分が、いわゆる普通と違っていると感じて、いわゆる普通の社会生活を求められることに苦痛を感じています。高校生の時、同級生の佳道(後の磯村勇斗)とともに学校の水道管を破って吹き上がった水を浴びたときの快感が忘れられずにいます。

仕事から戻り、その日の精神的疲労がどっと出たのかベッドに横たわります。次第に妄想の世界に入っていきます。ウォーターベッドに横たわっているような感覚(そういう映像でした…)が次第に水に浮かぶ感覚に変わり、そしてそれは性的快感になっていきます。

映像的には夏月の快感は水フェチによって得られる性的快感でしょう。衣服の上からですが手が太ももから股間にいく(ような…)カットが入っています。

死にたい佳道

佳道(磯村勇斗)は、明日も生きていたい感覚がない人物です。それゆえ、いわゆる普通の社会生活になじめず都会(横浜だったか…)から地元(あの方言はどこ…?)に戻ってきます。

世の中には明日も生きていたい人間のための情報が溢れていると言っています。ですので、そうした感覚を持たない佳道にはこの社会はとても生きにくく感じられるようです。

ただ、映画には佳道が生きにくいと感じているシーンがほとんど(まったく…)ありません。佳道自身がそう語るナレーションがあるだけです。ワンシーン、会社で同僚たちが佳道を野球に誘ってはみたものの、断る佳道に、だよなといつものことといったシーンがあるのみです。

地元に戻った佳道は、後に夏月と出会い、その時、ガムテープやら何かを持っていたのですが、それに対して夏月がそのテープは漏れるよとか、他にもなにか言っており、つまりガス自殺を試みようとしているらしいというシーンがあります。

映画ですから唐突であることはまあいいにしても、佳道がなぜ生きていたいと思えないのかを映画は何も語っていないということです。生きていたくないと言っているだけです。現実であればあり得ることにしても、これは映画ですのでそれを描かなければ映画じゃないでしょう。

で、結局、夏月と同じだねという会話があり、やっと佳道も水フェチということがわかる程度です。ということで、佳道も水フェチゆえに生きづらいと感じているということになります。

ふたりは本当に水フェチ?

でもねえ、佳道に関して映画が描いているのは、せいぜい高校生の時のワンシーンとラスト近くで噴水の中で水を浴びて戯れているシーンだけですよ。夏月の場合はまだ性的快感と結びついているワンシーンがありますが、佳道のフェチ度がどういうものなのかはまったくわかりません。それに夏月にしても水フェチと言うよりも佳道への恋心があの高校時代に一緒に浴びた水の体験と結びついているだけにも見えます。

で、ともに同じ嗜好(このシコウでいいのかなあ…)を持っていると感じたふたりは一緒に暮らすことにします。結婚指輪も買い、社会的には夫婦を偽装します。

個人的感覚ではそんなことしなくても一緒に暮せばいいんじゃないのと思いますし、現実でもそんなことが許容されない社会じゃないとは思いますが、これは映画ですので、日本社会が集団主義的かつ同調主義的価値観でそれを許さないということをやっているんだろうとは思います。

とにかく、ふたりの水フェチがどういうものなのかわからないことがこの映画の一番の問題です。つまり、この映画はふたりには何らかの共有できるものがあり、それが社会的には許容されないものとふたりが感じるものだということを言っているのですが、それを描いていないということです。くどいようですが、現実にはそうしたことがあるにしても、それが何かを描こうとするのが映画ということです。

どうやらふたりには異性愛感情はなく、また異性に対して性的欲望を感じることもないようです。

ふたりが異性とのセックスはこういうかたちでこうしてこうするらしいと話しながら実際にかたちだけやってみるシーンがあります。これを正常位というらしい、性器を挿入してこうやって動くらしいと話しています。

なんとも陳腐なシーンです。

そんなシーンよりも、ふたりの水フェチがどういう快感なのかを描けばいいと思います。仮にそれが性的快感であるのなら、夏月のシーンのようなものをふたりのシーンとして描けばいいですし、他のものであるのならそれを描けばいいと思います。

きっと俳優たちもセックスシーンを演じるよりも恥ずかしかったと思います。

啓喜は普通の人?

啓喜(稲垣吾郎)は検事です。専業主婦(と思われる…)の妻と小学生の子どもがいます。子どもが不登校になっています。ユーチューバーになりたいと言い、妻は、引きこもられるよりいいと子どもに協力しています。啓喜は反対はしますが、結局、ことは妻のペースで進んでいきます。

この啓喜という人物が見えてこないんですよね。映画的意図としては、いわゆる社会的マジョリティとして生きていくことをよしとしている人物に見せたいのでしょうが、稲垣吾郎さんのキャラもあるのか、まったく理解できないというようにも見えませんし、強固に反対するわけでもなく、俺のいうことを聞けといった家父長的人物にも見えません。

結局、ユーチューバーの件はズルズルと認めることになり、子どもはチャンネルを開設し、徐々に登録者も増え、コメントもつくようになっていきます。

そして事件は起きます。

佳道がネット上で自分たちと同じ嗜好も持っているらしい人物二人と交流し始め、会うことになります。なにかシーンがカットされているのか、私が記憶していないのかわかりませんが、三人は会った早々子どもたちが遊ぶ噴水で一緒に水と戯れそれを動画に撮っています。

あの子どもたちの中には啓喜の子どももいたように思いますがそれでいいんですかね。佳道は啓喜の子どものチャンネルも見ており、他の二人とはそこや他の SNS で知ったということになっています。後に啓喜自身がその動画を見ることになりますが、自分の子どもがいることに気づいた様子はなかったですね。見間違いでしょうか。

とにかく、佳道が一緒に水と戯れたうちのひとりが児童買春、児童ポルノ所持で逮捕され、その男が佳道にも動画を送っていることから佳道も逮捕されます。

夏月対啓喜

夏月は参考人として啓喜に事情聴取されます。

夏月は、佳道が子どもに興味を示すようなことを感じたことはあるかの質問にきっぱりとありませんと答えます。

そして、逆に啓喜に奥さんは戻られましたかと尋ねます。実は、以前ふたりはたまたま町で遭遇し、会話をしているのです。その時、啓喜は妻と子どもは実家に戻っていると漏らしています。それこそ啓喜が普通の人なら見ず知らずの人にあんなことは話しません。まあ、さほど不自然ではなかったのは、これも稲垣吾郎さんのキャラでしょう。

で、啓喜は答える必要はないといいつつも、それでもぽろりと調停中ですとつぶやきます。

夏月が伝言を頼めますかと尋ねます。啓喜はきっぱりと出来ませんと答えますが、しばらくあって、ちなみにどんな伝言ですかと促します。

夏月は、「いなくならないから。決していなくならないから」と言います。

問題提起するだけでは…

佳道だったか夏月だったかの台詞で「あってはならない感情なんてない」という台詞があります。

たしかにその通りです。水フェチであることが生きづらさに結びつくような社会であってはいけませんし、この映画がことさら強調しようとしている普通に生きることを人に強要してはいけません。

ただ、後者の点でいえば、それを一般化して親子や家族の問題で語ってはいけないと思います。実際問題、10歳そこそこの子どもが無防備にユーチューブチャンネルを開設することは好ましくありません。その点でいえば啓喜の心配は真っ当であり、そのことだけをとっていえば普通に生きるかどうかとは次元が違います。そうしたところを深く描かずして単に普通に生きるかどうかの題材にするのは不適切だということです。

そして、決定的なことは、「あってはならない感情なんてない」と主張しながら、一方では現に存在すると映画自身言っている小児性愛をどう考えるかにまったく触れずに終えていることです。あまりにも無責任です。