SEX

映画と言葉の関係はどうあるべきか…

今年2025年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した「DREAMS」のダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督の「SEX」です。もう1本の「LOVE」と合わせて最初から三部作として製作されており製作年もすべて2024年になっています。

SEX / 監督:ダーグ・ヨハン・ハウゲルード

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ネタバレあらすじ

この「SEX」は、「DREAM」がおもしろい映画でしたので翌日でしたかすぐに見ています。もう10日くらい前なのに今になってしまいました。書き残しておこうという意欲がわかなかったということですね、多分(笑)。

ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督は小説家でもありますので、やはり言葉に頼ると言いますか、言葉で伝えようとする映画監督のようです。「DREAM」はそうした言葉の重要性にも増して、映画としての構成や人物描写などでも完成度は高く、最後まで見応えのある映画でしたが、この「SEX」はほぼすべてが対話シーンで構成されており、なおかつその話の内容が体験談であったり、夢の話を語るというものですので、まあ言ってみれば友人からこんなことがあったよと聞かされているような映画です。

性的指向とは何か…

後々どういう映画だったかと思い返すことができる程度に書いておくだけです。

煙突掃除を仕事とする40代(だと思う…)の男性二人の対話とそれぞれの妻との対話で構成されています。

オスロ、3つの愛の風景

ノルウェイではまだ暖炉が多く使われているんですね。ロープを背負っていますので機械ではなく人が煙突の中に入るのでしょうか。でもロープが細すぎますね、どうなんでしょう。

休憩中の二人の会話。その一人がデヴィッド・ボウイから女性として見つめられている夢を見たと語ります。それを聞いてもう一人の男は、つい最近煙突掃除の依頼で行った家の男とセックスしたと語り始めます。自分はゲイではないが自然にそうなったし、強烈な体験だったが嫌ではなかったと言います。また、もうするつもりはないとも言います。

ふたりとも相手の話に驚いたりする茶々を入れたりすることもなくごく自然な日常会話として話しています。

セックスの男は妻にも後ろめたさといったものを感じることなく同じように話をします。しかし、妻は動揺します。妻の動揺がどういうものか、つまりセックスの相手が男性であることなのか、浮気ということなのかははっきりしていません。まあそれらがぐちゃぐちゃに混ざったものだとは思います。夫の方はこれは隠すつもりもないので浮気ではない、また相手は男性だと主張しています。

この夫婦の、対話、妻の戸惑い、夫の無理解、夫の男の論理、妻の葛藤、妻の好奇心が何シーンかに分けられて描かれていきます。いや、語られていきます、ですね。

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性自認とは何か…

もうひとりの夢の男です。

デヴィッド・ボウイから女性として見られる夢を何度も見ると話しています。こちらも同じように妻にも話します。妻は特に気にする様子もなく描かれていたと思います。知り合いにトランスジェンダーがいると言っています。

こちらの夢の男の話には、妻との関係よりも「DREAMS」にも書きました「神」に対して人間が持つ意識を俎上に上げるための設定がされているように思います。夢の男は教会の合唱団で歌っています。ただ、そのことをあまり人に知られたくないような雰囲気を漂わせています。

夢の男は最近声質が変わってきた(出なくなっただったか…)と言い、医師に見てもらいます。医師は喉が緊張しているからだと言い、舌を引っ張る治療(マジか?…)をしていました。その時、息子も一緒に来ており、息子は医師に女生徒が生理に苦しんでいる(ということだったと思う…)ことを相談して、医師からそのつらさの説明を受けていました。また、医師は夢の男にハンナ・アーレントを読みなさいと勧め、本を貸していました。

ラストシーン近く、夢の男が教会での合唱発表会(ミサ関連かも…)で息子が縫ってくれた赤い衣装をつけてミュージカルのワンシーンのように踊りながら歌います。

記憶しているのはこんな感じです。特にまとめのようなオチのようなものはありません。

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感想、考察:言葉の持つ空虚さ…

様々なセックス、ジェンダー、セクシュアリティの概念が持ち込まれています。ただし、男の側からだけです。

セックスの男の方では、性的指向、ジェンダーロール、セックスと愛。

男は自分はゲイではないが男性とのセックスに抵抗はなかったと言い、また妻に隠していないからなのか、女性との性行為ではないからなのかはわかりませんが、妻への裏切りではないと主張しています。

夢の男の方では、性自認、性ルッキズム、女性性タブー。

男は自分が女性的と見られることに抵抗を感じています。あるいはそれはそう見られたいという意識の裏返しかも知れません。男は自分の性に違和感を感じているわけではなさそうですが、それに対して妻はトランスジェンダーの話をぶつけています。また、男の息子は女性の生理を何の心理的抵抗もなく言葉にできています。

というようなことが、映画的にではなく、あからさまに言語として提示されているのがこの映画です。

ですので、映画としての面白みはありません。

そして最後にもうひとつ、「DREAMS」のレビューに、ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督にはその意識がどこにあるのかはわからないにしても「神」あるいは「信仰」というものについて整理できない何かがあると書きましたが、まったくの想像で言えば、本人は無神論者ではあるが、何か満たされないものを感じているということじゃないかと思います。

言葉というものの持つ、ある種の不確かさなのかも知れません。