淡々と語られる中山晋平の人生と歌
時にはこういう映画もいいかと思い DVD を借りてみました。こういうが何を指しているのか自分でも判然としませんが(笑)、明治、大正、昭和の著名な人物がたくさん登場しますので、そういうつながりがあったのかなどと楽しく見られます。

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ネタバレあらすじ
映画は中山晋平の経歴をなぞるように晋平(中村橋之助)が人と出会い、そして歌が生まれていく様子が時の流れとともに淡々と語られていくだけです。
中山晋平と島村抱月、松井須磨子
晋平の生まれは現在の長野県中野市です。映画は 1905年(明治38年)、18歳で島村抱月の書生として東京に出るところから始まります。当時の中山家は裕福ではなかったらしく借金をして東京へ出たようです。
島村抱月(緒形直人)はイギリスとドイツへの留学から戻り早稲田大学文学部教授という立場です。抱月は坪内逍遥(川崎麻世)と文芸協会を設立して演劇活動を始めています。
晋平は、1908年に東京音楽学校予科に入学した後、翌1909年には本科のピアノ科に入学し1912年に卒業しています。映画では晋平が達筆だからと抱月から頼まれる清書に明け暮れる日々と、音楽学校では成績はあまりよくないものの、それでもひとりの教師からなにか才能があると認められやっと卒業ができたところなどが描かれます。
卒業後は小学校の教員として働いていたところ、1914年に抱月が女優松井須磨子(吉本美優)と旗揚げした芸術座の舞台「復活」の主題歌の作曲依頼を受けて「カチューシャの唄」を作曲します。これが大当たりします。ウィキペディアにはレコードとなり2万枚以上売り上げたとあります。
翌年には同じく芸術座の「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの歌」を作曲しています。レコードでしょうか、当時の音源が Youtube に上がっています。
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その後も芸術座の舞台の曲を何曲か作曲しているようですが映画では描かれていません。
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中山晋平と野口雨情、佐藤千夜子
1918年に抱月がスペイン風邪で死去、2ヶ月後に松井須磨子が後追い自殺して芸術座は解散します。
こうしたことも特別大きな出来事として描かれることはなく淡々と進んでいきます。
どこかで時点で敏子(志田未来)と結婚しています。敏子を紹介したのは坪内逍遥だった(間違っているかも…)ように思います。見合いの場で敏子が、ごめんなさい、有名な作曲家と会ってみたかっただけですと言った途端、晋平は結婚しましょうとプロポーズしていました。どういう意味合いかよくわかりません(笑)。
そして、1920年頃から野口雨情と組んで「船頭小唄」や童謡を発表しています。この「船頭小唄」は日本人の琴線に触れる哀調を帯びたヨナ抜き音階という作曲法を用いたもので、晋平は日本歌謡のパイオニア的存在と言われています。
晋平は雨情と佐藤千夜子(真由子)と組んで日本全国を回ります。その時に高知で敏子の死後に結婚することになる新橋喜代三(中越典子)と知り合っています。
童謡では「シャボン玉」や「てるてる坊主」が使われています。ウィキペディアを見ますとすごい数作曲していますね。晋平の作曲と判明しているだけでもすべてのジャンルで1770曲とあります。
映画でははっきり描かれてはいなかったと思いますが、1922年まで小学校の教員は続けていたようです。その後、1923年に関東大震災に被災し、1928年からは日本ビクターの専属作曲家となり、多くのヒット曲を生み出しています。映画では「東京行進曲」が大きく取り上げられています。レコード25万枚の売上だったそうです。この曲の作詞は西城八十(渡辺大)です。
そんな中、敏子が亡くなります。敏子は生前しきりに子どもを生めなくてごめんなさいと謝っているシーンがあります。結局、2人を養子として迎えています。敏子の死後は高知で知り合った喜代三と再婚しています。
晩年は古関裕而、古賀政男、服部良一といった新進気鋭の作曲家が誕生し、第一線から退くような描き方になっています。大西洋戦争が始まっていますのでその戦局の悪化もあり、熱海に疎開し、戦後はほとんど作曲はしていないようです。
1952年12月30日に亡くなられています。
映画では熱海の自宅で傍らの喜代三に母のどてらを掛けてくれと言って息を引き取っていますが、実際は熱海国立病院で亡くなったようです。
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感想:伝記と言うにもちょっとさみしい
感想と言っても特にないのですが(ゴメン…)、正直なところ、なにかひとつに焦点を絞ってほしいなあとは思います。
ヨナ抜きですかね。日本歌謡のの原点ですからね。
俳優さんが誰が誰だかよくわかりませんでした(笑)。中村橋之助さんも見た後に公式サイト見てわかったくらいです。わかったのは緒形直人さんと三浦貴大さんだけでした。