ビル(キリアン・マーフィー)の苦悩、苦悩、苦悩…
「オッペンハイマー」でアカデミー賞主演男優賞を受賞したキリアン・マーフィーさんが、アイルランドの作家クレア・キーガンさんの『ほんのささやかなこと』を読み映画化を望んだということです。ですのでプロデューサーにも名前が入っていますし、他にベン・アフレックさんとマット・デイモンさんもプロデューサーに名を連ねています。

ネタバレあらすじ
アイルランドの話です。1993年に事が明らかになり大スキャンダルとなった「マグダレンの洗濯所」を題材にしています。
「マグダレンの洗濯所(Magdalene Laundries)」は、18世紀から20世紀後半にかけてアイルランドを中心に運営されていた、「不道徳」と見なされた女性たちを収容し、強制労働や虐待を行っていた施設です。カトリック教会の修道院によって運営され、20世紀末に実態が明らかになると、アイルランド史上最大級の国家・宗教的スキャンダルとなりました。
(Gemini)
こういう要約は AI(Gemini)のほうがうまいですね。より詳しくは、
- マグダレンの祈り(映画のウィキペディアですが中程にマグダレン洗濯所の説明あり)
- Magdalene laundries in Ireland
などでどうぞ。
映画「マグダレンの祈り」は2002年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞です。
この「マグダレンの祈り」は修道院に収容された3人の少女を軸に修道院内の虐待が描かれています。一方、今回の「決断するとき」は修道院内でなにかよくないことが行われているのではないかと気づいた外部の男性の苦悩と決断を描いています。
原作があります。クレア・キーガンさんの『ほんのささやかなこと』です。2022年にブッカー賞のショートリストに選ばれています。
ビル、フラッシュバックに悩まされる
ビル(キリアン・マーフィー)はアイルランドのニューロスという町で石炭商を営んでいます。
時代は1985年となっていますので、石炭? とも思いますが、まだ地方では冬の寒さを凌ぐ主要な燃料だったようです。クリスマス前後の話となっています。ビルは妻アイリーン(アイリーン・ウォルシュ)と5人の娘たちと暮らしています。
ある日のこと、ビルは石炭を配達した修道院で若い女性が母親と思われる女性と修道女の手で無理やり院内に押し込められるところを目撃します。
これが映画ほぼ最初のシーンです。このときからビルの苦悩が始まり、それが約1時間半(映画の尺…)続きます。特に何かが起きるわけではなく、ただただ苦悩し、そして最後に決断するビルです。実日数は1週間くらいだと思います。
その苦悩の中でビルは子どものころのフラッシュバックに悩まされます。このフラッシュバック、小出しにされますのでちょっとわかりにくいです。
ビル10歳くらいのシーンが数回にわたって挿入されます。ビルはわりと裕福な家庭で育っているようにみえますが、どうやら、それは実の家族ではなく、母親が未婚でビルを出産したために地主の家のウィルソン夫人に母子ともに引き取られて暮らしているということのようです。
シーンとしては、ウィルソン夫人に可愛がられていること、母親がその家に関わりのある人物と愛し合っていること、クリスマスプレゼントが望みのものではなかったことで失望すること、それを母親が愛し合っている男性が慰めてくれること、そしてある日突然母親が亡くなることが描かれます。
原作によればこういうことのようです。
母親は未婚の10代でビルを出産し、家族から疎外されてウィルソン夫人のもとでメイドとして働いています。映画で母親が愛し合っていた男性はウィルソン家で働く労働者のネッドで、ビルの父親と思われます。映画の後半にビルがウィルソン家を訪ね、その時の居住者にネッドに似ているねと言われるシーンがありましたが、そのことを示しているシーンということです。
おそらく原作もそうなんだろうと思いますが、映画のテーマはビルの内省的な苦悩ということですので、不道徳な女性と言われて修道院でひどい扱いを受けている女性に母親の姿を重ね合わせていく姿を描こうとしているということになります。
一貫してビルを追い続けていますので苦しんでいることはわかりますが、ただ、その苦悩に変化がないといいますか、ほぼ同じトーンで続いているのは映画的にはちょっとたるいとは思います。
ビル、ただただ苦悩する
ビルのフラッシュバックと並行して描かれる修道院の話です。
修道院への2度め(映画内のです…)の配達のシーンです。なにか変だと思うことからだと思います、ビルは入っちゃいけないと掲示のある修道院の中に入ります。床掃除をする女性たちがいます。その一人からここから出してと懇願されます。その後、修道女に咎められて外に出ることになりますが、その途中で多くの女性が洗濯作業をさせられている姿を目撃します。
また後日の配達の日、ビルがは石炭を納める小屋にうずくまって震えている女性を発見します。女性はサラ(母親と同じ名だったと思う…)と名乗り、まもなく子どもが生まれると言います。ビルはサラを安心させ、修道院に連れ戻します。修道院長メアリー(エミリー・ワトソン)は威厳を持ってビルを威圧します。つまり、修道院内のことを他言するなと、修道院付属の学校に通っている娘たちの将来を盾にしてビルを脅し、さらに妻のアイリーン宛に現金を入れたメッセージカードを渡して懐柔しようとします。
すでにちょっとだけ書いていますが、この映画、変化がほとんどありません。ビルは苦悩しっぱなし、アイリーンはそんなビルに気をかけるものの、その悩みが修道院に関わることとわかれば家族のためには見てみぬふりをしてとの気持ちを投げ続けるだけです。
修道院長はさらに圧力をかけたのでしょう、ビルは行きつけのパブの主人からも修道院のことに触れてはいけないと強く忠告されます。
そして、クリスマスです。ビルは町でアイリーンへのプレゼントを買い家に向かいます。そのある瞬間、心が決まったのでしょう。踵の返して修道院に向かいます。燃料倉庫を開けますとサラがうずくまって震えています。ビルはやさしくサラの緊張を解きほぐし、修道院から連れ出し、町の衆目の目の中を二人で歩き、家につれて帰ります。
妻と娘たちのにぎやかな声が聞こえています。ビルはサラをその中につれていきます。
感想、考察:文字表現と映像表現
え!? と驚く終わり方でした。
率直に言って、映画として単調です。ウィキペディアで原作の概要を読んだ限りでは、原作にかなり忠実に映画化されているようです。異なっていると思われるのは、
- 最初に連れ出してほしいと懇願した女性は川で自殺するつもりだった
- サラはすでに子どもを出産した後で子どもの行方を探していた
- 修道院長は、サラは精神を病んでいて誤って外に出たと話す
くらいのようです。
原作を大切にして作られている映画なんだろうと思います。しかし、文字表現と映像表現は決定的に違います。小説などの文字表現は読んで受け取るという行為では受動的ですが、そこからイメージが広がるという点では読み手の能動的な行為です。優れた文字表現は映画そのものなど及びをつかないほどの映像空間を作り出します。
一方、映画などの映像表現は見ているその時は受動的でしかあり得ません。仮にあるシーンを見てイメージが広がったとしても次々にやってくる映像を受け入れることで広がったイメージなど打ち消されてしまいます。映像表現に対して能動的になり得るのは見終えた後になります。
見終えた後、感動しなかった映画や多くを感じなかった映画に思いはふくらみません。
残念ながら、きっと原作は多くのことが頭の中で広がる話であったのに、映画は見ている映像そのものでしかなかったということです(ゴメン…)。
映画の初っ端からビルの呼吸音を強調してその苦悩を演出していました。それが変化を感じさせない要因でもあります。
ところで、原作者のクレア・キーガンさんは「コット、はじまりの夏」の原作者でもあります。子どもが主役でしたがいい映画でした。原作のタイトルは『あずかりっこ』、あまりいいタイトルじゃないですね(ゴメン…)。