パリのどこかで、あなたと

誰かとどこかでパ・ド・ドゥ

若干の親愛を込めて言えば、セドリック・クラピッシュ監督は寂しがり屋の甘えん坊ってことのようです。

「スパニッシュ・アパートメント」以降、前作の「おかえり、ブルゴーニュへ」まで数本は見ていますがそんな気がしてきました。ただし、それは特別なことというわけではなく誰もが同じという意味であり、特に男の場合はなぜだかそれが顕著です(笑)。

パリのどこかで、あなたと
パリのどこかで、あなたと / 監督:セドリック・クラピッシュ

家族、そして肌のふれあい

いきなりネタバレ話になりますが、メラニー(アナ・ジラルド)にしてもレミー(フランソワ・シビル)にしても、現在の鬱的状態は家族関係に原因があるとのオチになっています。

オチヘの持っていき方そのものはかなり強引な印象ではありましたが、前作の「おかえり、ブルゴーニュへ」もバラバラだった兄弟姉妹が父の死を契機にひとつになるという話でしたし、あるいはクラピッシュ監督自身になにか家族に関する心の変化があるのかもしれません。

映画はほぼ8割方ふたりの鬱的状態を描き続けます。ふたりがいつ出会うかとの期待(さほど強くない)をもたせつつ進みますが、ラストシーンまで出会いません。すれ違ったりはしますが絡みそうになることもありません。

ですので、この映画はメラニーとレミーのラブストーリーではなく、それぞれのファミリー(パーソナル)ストーリーを描くことが主要なテーマじゃないかと思います。それを感じたのは、ラストシーン近く、それぞれふたりを診療する心理療法士が親子であることをわざわざ明かしたり、その父親が引退するにあたり娘に何かを託すような会話を入れていることからです。

レミーがクリスマス休暇に両親のもとに帰るシーンがありますが、家族や親族の執拗なキスシーン(ビズ)はかなり意図的なシーンに感じます。日本人目線だからということもあるかもしれませんが、誰が誰とも説明することもなくあのシーンですのでとにかく家族というものが強調されているように感じます。

レミーの鬱的状態の原因は幼くしてこの世を去った妹の存在に関係しています。ただ、そのこと自体は明かされてもなぜそれがレミーの重荷になっていたのか、なぜ両親がそのことに触れないようにしていたとレミーには思えるのかは描かれていません。

同様に、メラニーの原因は母親との確執なんですが、これもただ単にメラニーが20歳の時に母親が引っ越していったということしか明かされません。いくら何でも20歳なら捨てられたという気持ちはないでしょう。

ということでどちらも家族というものが重要な要素にはなってはいるものの、はっきりとしたことは描かれないというよくわからない映画です。

あえて深読みすれば、確か台詞でもあったと思いますが、自分を愛せなければ人は愛せないということであり、自分を愛するということは自分の過去を認めるということであり、そこには必ず家族というものが絡んでくるということでしょう。

おそらく、家族を原点とするリアルな人と人とのふれあいのようなものが意識されているのだと思います。

ダンスはふれあいの象徴?

ダンスはこの映画の重要な要素です。人と人のふれあいという象徴的な意味合いがあるのでしょう。

ラストシーンでふたりが出会うのもコンパというハイチの音楽のダンス教室です。ハイチは元フランス領です。

この曲が使われていました。

レミーがテレビで見ていたキスをしながらぐるぐる回るダンスは、アンジュラン・プレルジョカージュがパリ・オペラ座バレエのために振り付けた作品「Le Parc」からのパドドゥです。


Le Parc by Angelin Preljocaj (Aurélie Dupont & Nicolas Le Riche)

これですね。

レミーが同僚の女性を自分のアパートメントに招いた時にもテレビで何かを見ており、女性にダンスが好きなのと聞かれていましたが、あれは何だったんでしょうね?

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

メラニー(アナ・ジラルド)はがんの免疫治療の研究者です。過眠症に悩んでいます。恋人との別れに原因があると本人は思っています。

レミーは配送センターで働いています。不眠症に悩んでいます。同僚たちがロボット導入による合理化で解雇されたにもかかわらず自分は上司の推薦で昇進したことの罪悪感が原因と本人は思っています。

ふたりは隣り合わせのアパートメントに住んでおり、街ですれ違ったり、地下鉄で隣り合わせに座ったり、同じエスニック食材店で買い物したり、同じ薬局で偶然隣り合わせで治療薬を買ったりします。

こんな感じのシーンが続きながらラストシーンまでまったく絡まずに進みます。つまりふたりが出会うことを見せるラブストーリーではないということです。どちらも最後まで相手の存在を知りません。

レミーが地下鉄の中でパニック発作をおこし救急搬送されます。それを機に心理療法士の治療を受けることになります。

メラニーも同僚のアドバイスで心理療法士の治療を受けます。同じ療法士ではありませんし、同じ診療所というわけでもなさそうです。レミーは高齢の男性、メラニーは中年の女性です。

こうして約半年間治療が続くことになります。その間に、メラニーは研究発表のプレゼンターに指名されプレッシャーがかかったり、友人たちからは治療よりも男よとマッチングアプリに登録させられます。

クリスマス休暇、メラニーのもとに妹がやってきて母親に会いに行こうと誘いに来ます。メラニーは何かこだわりがあるようなことを言い、いかないと断ります。

レミーの方はFacebookに登録し同級生と会ったりします。職場ではコールセンターに配属され、そこで知り合った女性と話をしますがうまく噛み合いません。それでも思い切って電話し自分のアパートメントに誘います。レミーは何となくその空気を感じキスをしようとしますが女性からはそんなつもりはないと言われてしまいます。

という感じで進むのですが、そうした出来事もさほど重要な扱いではなく、仕事に行き、週に一度セラピーに通い、エスニック食材店で買い物をし、寝て起きる生活が描かれていきます。

レミーが猫を押し付けられ(どういうことかよくわからない…)飼うことになります。最初は戸惑っていますが次第にその可愛さにメロメロになっていきます。そんな時、どこからか女性が歌うことが聞こえてきます。メラニーがバスルームで歌っているのです。


Gloria Lasso – Historia de un Amor

これですね。グロリア・ラッソさんというスペイン生まれの歌手で1950年から60年代にかけてフランスで活躍されたそうです。

メラニーもよくこんな古い曲を歌えたものです。母親がよく聞いていたとかの設定なんでしょうか。それに、その歌を聞いたレミーがすぐに検索して流し返していましたが、あれは Googleのサウンド検索を使ったのでしょうか。そんなものを使いこなしているようには見えませんでしたが(笑)。

ある日のこと、レミーの猫がいなくなります。

またある日(その日かも)のこと、メラニーがその猫を見つけ飼うことにします。

という、どちらも出会うための仕掛けかと思いましたが出会いません(笑)。それどころか、その後まったくそれには触れられません。音楽もそのシーンだけ、猫もどうなったのかわからないまま終わります。

研究発表の前日、メラニーはマッチングアプリの男とセックスをし、酒を飲み、マリファナを吸い、部屋中に吐いてもどすというひどい状態になります。翌朝、なんとか発表に臨みますが上司たちは不安そうです。出だしはたどたどしく危なっかしい状態ですがなんとか切り抜け、逆に暗記していたことなど飛んでしまい自分の言葉で発表できたようです。これもその後どうなったかわかりません。

ある日の深夜、近所で火事が起きます。父親らしき男がストレッチャーで搬送され、母親らしき女が泣く娘を抱きしめながら不安そうにしています。メラニー、レミーともにその様子を目撃します。そのことがふたりの記憶を呼び覚まします。

セラピーのシーン、突如レミーは7歳だった妹の死を語り始めます。なぜ黙っていたと尋ねる療法士に両親がそのことを話すことを避けていたと語り、10歳だった自分の衝撃と不安を語ります。

メラニーは火事の時搬送される父親を見送る娘の姿を見て、幼い頃父親が出ていく姿を見てどんなに不安だったか思い出し、その気持ちを母親は理解してくれなかったと語ります。

その帰り道、メラニーは母親に電話をします。母親の応答は怪訝な感じのようですがメラニーは冗談をまじえ明るく答えています。

レミーは両親のもとに向かい、妹の死について話をします。

が、ここはよくわかりません。なぜ妹の死を話すことがタブーであったのかまったく説明されていません。この時レミーは妹の墓に向かうのですが、それはクリスマス休暇に帰った時に、家族親族一同で山のどこかへ向かうシーンがあり、レミーが皆から逸れて横道に入ろうとした時に誰かからそっちへ行くと父親が怒るみたいなことを言われて行かなかったところなのです。実はそこは墓地であり、妹の墓があるわけです。

突然、パーティーシーンになります。ふたりの心理療法士がいます。ふたりの心理療法士は親子です。父親は娘に自分は本当に人の役に立ったのだろうかと語っています。

レミーのセラピーシーン、レミーは仕事を辞めたと話します。心理療法士は君が最後の患者だ、今後何かあったらと別の療法士の名刺を渡しています。

後日、レミーはエスニック食材店の店主から勧められていたダンスのレッスンに向かいます。たくさんの生徒たちがいます。リズムの取り方の基本を教わり、ペアのレッスンに入ります。先生がレミーに初心者の君はあちらの初めての女性と組んでくれと言います。そこにはメラニーがいます。

ふたりはコンパを踊ります。

焦点の定まらないはっきりしない映画

孤独な男女が出会う物語をやろうとしたわけでもなさそうです。上にも書きましたが、猫や音楽という出会うための仕込みはされているわけですからそれを使えば簡単に出会わせることは出来ます。

でもそれをやっていません。ベタさを避けたかったのか、そもそもそうした奇跡のラブストーリーをやろうとしたのではなかったのか、とにかくよくわからない映画です。

メラニーもレミーもネット依存の生活をしているわけではありません。スマートフォンもほとんど出てきません。メラニーのマッチングアプリにしても寂しさからやっているようには見えません。レニーにしてもFacebookでさえ登録していなかったわけです。

ふたりには都会の中の孤独を感じさせる雰囲気はありませんし、そうしたシーンもありません。至って普通のひとり暮らしにしか見えません。ひとり暮らしイコール孤独というわけではありませんので思い込みで見なければあのふたりが孤独に苛まれているようには見えません。不眠症に過眠症という設定のようですが、それも思い込みで見なければそうとは見えません。

クラピッシュ監督の映画はとにかく明るく楽観的なものが多く、人間のダークな心理面を描く監督ではありませんので、もし孤独な人物を描こうとしたのならこれが精一杯なのかもしれません。

とにかく焦点の定まらない何がなんだかはっきりしない映画です。

おかえり、ブルゴーニュへ(字幕版)

おかえり、ブルゴーニュへ(字幕版)

  • 発売日: 2019/05/08
  • メディア: Prime Video