いつになったら女性は脳内男性から開放されるのだろう
なんとなくタイトルに惹かれ、上映劇場の紹介に「荒井晴彦が企画、荒井美早が脚本化」とありましたので見てみました。
公式サイトによりますと、荒井美早さんは1986年生まれですから現在33歳、映画の内容からしてへぇーと思ったのですが、さらにびっくりしたのは監督の斎藤久志さん、1959年生まれということですので60歳ということになります。
映画の印象からすればもっと若い制作者をイメージしたということで、特別批判の意味でもないのですが、なんだか映画がぼんやりしてふわふわしているといいますか、狭い世界の話すぎて年齢との間に違和感を感じたということです。
そもそもの物語が観念的ですよね。書きたいものがあって書いたという感じがしませんし、映画自体にも撮りたいものを撮ったという熱がまるでないです。熱って、情熱とか熱気とかがあふれるというような意味合いではなく、逆に何かに凝縮されていく感じといいますか…、こうした映画の場合は、やっぱり人物ですかね。
主要な登場人物は4人なんですが、全員なんだかふわふわしています。書き込まれておらず描ききれていない感じがします。4人のうち男ふたりについては、ある程度の輪郭は与えられていますが、せいぜい男性器を持った人間くらいにしか描かれていません。
これ、実はすごいことかもしれず、世に結構多い男の妄想映画では、女性が女性器を持った存在くらいにしか描かれていないものもあり、その意味では新鮮といえば新鮮なんですが、ただ如何せん、その男性(器)によって女が変わるという話ですからね。
女性のひとり、岡崎夢鹿(縄田かのん)は、公式サイトには「消えない虚無感を埋めるため、男となら誰とでも寝る生活を送っていた」とありますが、そもそもの虚無感自体が見えない上に、その虚無感ゆえに誰とでも寝る人物だとして、あの描き方がシナリオのものだとすればそれは女性の脳内男子が描く女性像でしょう。
もうひとりの女性、高野十百子(中神円)はまだ実在感があります。潔癖症という設定らしく、冒頭、家に入るときにはウェットティッシュでドアノブを拭き、家に入れば必死に手を洗い着ているものを洗濯機に脱ぎ捨てます。潔癖症になった原因は後に明かされますが、高校生(だったと思う)の時、あこがれの先輩がいたのだけれど、ある時その先輩がAVに出ており、複数の男性に凌辱されているのに喜んでいるように見えたことから、あらゆるところに男性の精液がついているような気がして何にも触れることができなくなったということです。ただ、夢鹿だけには触れることが出来、抱き合うことも、セックスもできます。
AVに出ていたという設定がなんともあれ(どれ?)ですが、それはそれとして、十百子のこのあたりの精神状態は割と人間的にありそうで、どういうことかと言いますと、十百子にとって潔癖でありたいというのは嘘ではないのでしょうが、ただ十百子自身、夢鹿だって精液にまみれていることは知っているわけですから、それでも触れることができるということは精液云々ではなく、高校の先輩には振られたけれども、夢鹿は好意を持ってくれているので付き合えているということなんだと思います。こういう人間の体と心のバランスってありそうですよね。
で、夢鹿は(理由もなく)十百子に男性との性体験をさせようとします。
理由もなく見えるのは、夢鹿という人物自体が物語のためにつくられた、つまり十百子に男性との性体験をさせるために創作された脳内男性の妄想だからでしょう。
そして、十百子は男性とセックスし、夢鹿から去っていきます。
という映画なんですが、違う見方もできるかもしれません。
夢鹿、十百子ともに体と心のずれに苦しんおり、夢鹿は体を壊す(誰とでも寝る)ことで体を無にしようとし、十百子は体を守る(何にも触れない)ことで心の傷から逃れようとしているというものです。しかし夢鹿は、自分に触ることができる十百子の潔癖症は嘘だと見抜いており、十百子の体を壊す(男とセックスさせる)ことで自分が抱える(ひとりじゃないという)虚無を埋めようとします。ところが、ことは逆に進み、十百子の心の傷は男とのセックスによってあっという間に霧散してしまい、十百子自身が夢鹿の元を去ってしまいます。夢鹿はやはり自分の穴は自分で埋めるしかないと母親のもとに帰っていきます。
いずれにしても、この映画、無理やり作り出されている感じは免れません。多少、十百子の物語には芯もありそうですが、他の人物は物語のためにしか存在していない空虚さがあります。