スロベニアの美しき栗の森とそこで生きる人間の挫折、悔恨、あるいは希望…
スロベニア映画です。あまり馴染みがない国で地図上の位置もぼんやりですのであらためて確認してみました。1992年まではユーゴスラビア社会主義連邦を構成していた共和国で、西はイタリア、北はオーストリアに隣接する国です。
ユーゴスラビアといいますとどうして1990年代の内戦が頭に浮かんできますが、スロベニアは10日間という比較的短い戦闘で独立しています。1995年まで激しい戦闘が続いたクロアチアは南に隣接する国です。
屋外は印象派、屋内はバロック期の絵画的映像…
映画の時代背景は第二次世界大戦直後で、場所はイタリアとの国境付近の森の中の村です。
どちらかと言いますとヴィジュアル先行の映画ですので、場所はかなり重要な要素ですが、時代については、特に歴史的な時代という意味ではあまり重要な要素には感じられず、21世紀の今でも映画のような生活がありそうにも思える内容です。戦争直後を感じさせる映画ではないという意味です。
美しい森の映像から始まります。それぞれのカットがスチル写真にもなる構図で撮られています。言葉では説明が無理ですので、グレゴル・ボジッチ監督本人のサイトや IMDb の写真を見ていただければ雰囲気がわかると思います。
こんな感じです。綿毛でしょうか、きれいでした。
こうした屋外の映像は絵画でいえば印象派といったところで、屋内の映像はその光の使い方にフェルメールやレンブラントを強く意識している感じがあります。
ところで、日本の公式サイトにはフェルメールやレンブラントを印象派としていますがふたりともバロック期の画家です。
それはともかく、映画はそうした美しい映像の連続ではあるのですが、どうでしょう、美しいなあとは思ってもなかなか映画そのものに集中できず進んでしまいます。映画に必要な意識の連続性をもたらすものがないということじゃないかと思います。言い方を変えれば主観的な共有感を持てないというでしょうか。
自然の美しさとは対象的な人の営み…
そうした美しい背景の中で進む人間の物語はかなり重苦しいものです。
なお、この映画を見たのがしばらく前ですので以下の内容はあまり正確ではないと思います。
その村に夫婦で暮らす大工のおじいさんがいます。酒場で賭け事に興じています。おじいさんは頑固なのか、村人たちともあまりうまくいっていないようです。家に帰りますと妻が病に苦しんでいます。でも、おじいさんには思いやりの気持ちなどなく、飯はまだか、寝れば治るといたわりの心など皆無です。それでもこりゃやばいと思ったのか夜中に医者に連れていきます。しかし、これまた医者は医者で、今何時だと思っているんだ!と患者を診ようともせず「インフルエンザか結核かチフスだ」と文句たらたらで訳のわからない薬を処方するだけです。
そして、妻は亡くなります。おじいさんは森をさまよい歩いています。
ロケ地は、イタリアの Valli del Natisone とあります。たしかにおじいさんがこんなところをさまよい歩いていました。
栗を拾い集める女がいます。集めた栗を川に落としてしまい慌てて拾い集めています。たまたま居合わせたおじいさんも手伝います。女はおじいさんを家に招きます。
女は戦争に行ったきり戻らない夫の話をします。おじいさんは家を出たまま戻ってこない息子の話をします(妻の話はしないのか…)。おじいさんは女にお金を渡します。女は戸惑うものの受け取って村を出ていきます。
おじいさんが若い頃の幻を見たりします。息子に出せなかったたくさんの手紙があります。
書いてはみましたがやはり正確には思い出せません(ペコリ)。それに小学生の作文のようになってしまいました(笑)。
映像の美しさだけでは感動は生まれないかも…
やはり映画は映像だけではないということだと思います。
おじいさんのまぼろし映像のような感じで「東方の三賢人(東方の三博士)」が何度か登場します。どういう意図なのかははかりかねますが、グレゴル・ボジッチ監督の遊び心みたいなものだと考えれば、そうしたものが映画全体としてうまく融合していない感じをうけます。
また、映画としての評価以前に、この映画を2023年の日本で見ることの意味という点では時代的背景的にも、地政学的にも、やや引いた感じの客観的視点で、ああ美しいなあと見るしかない映画ということになります。