ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ

ボストン行きまでが長ーい長ーい前置きに感じられる…

サイドウェイ」や「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」では味のある大人の映画を撮る監督だと思っていたのが、前作ではなんとも奇妙なSFファンタジー「ダウンサイズ」で大失敗(個人の意見です…)というアレクサンダー・ペイン監督です。ただそれももう7年前、久しぶりという感じがします。

ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ / 監督:アレクサンダー・ペイン

置いてけぼりにされた感じ…

時代は1970年の年末、ボストン近郊にあるバートン校での物語です。全寮制の私立高校で、生徒の年齢は15歳から18歳くらいです。

クリスマス休暇が始まります。多くの生徒が家族のもとに帰りますが、中には事情によって帰れない生徒もいます。そうした生徒たちの監督役として古代史の教師ポール(ポール・ジアマティ)と寮の料理長(かな?…)のメアリー(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)が学校に残ることになります。生徒は当初5人残りますが、すぐに映画の本題であるアンガス(ドミニク・セッサ)ひとりになります。そして、この3人の、誰も望んだわけでもない2週間のホールドオーバーズ状態のクリスマス休暇が始まります。

映画が最初に見せるポールの人物像は、堅物で融通がきかず、それゆえ生徒たちからは嫌われているという設定です。ポールは独り身で休暇もずっとひとりで過ごしてきているらしく、生徒たちが家族のもとに戻れようが戻れまいが気にしていない様子です。

アンガスは両親とともにセント・キッツ島(カリブ海の島…)へ行くつもりで荷造りまでしていますが、母親からは再婚の夫と二人の休暇を楽しむ(ということのよう…)ので一緒に行けないと言われ、失意と苛立ちのどん底状態です。

メアリーは息子をベトナム戦争で失ったばかりであり、その悲しみを酒で紛らわせています。

という設定の3人です。この導入であれば誰もがこの3人の関係がどうなっていくんだろうと思いますし、間違いなくそういう映画だと思います。

しかし、これがなかなか予想通りには進みません。

人は自分をさらけ出さなければ親しくなれない…

何を予想しているかといいますと、そのひとつはコメディテイストで軽やかに進んでいくであろうということと、そしてもうひとつは、ポールの堅物さはある種の信念に基づいているからであり、その信念がやがてアンガスに伝わり、またそのクッション役として介在するのがメアリーだろうという、3人の心の変化を描いていくドラマ展開です。

どうやら違ったようです。結論から言いますと、ポールにあるのは信念ではなく後悔や無念の思いであり、アンガスにあるのは渇望感であり、そして、メアリーにあるのは喪失感ということです。ネガティブで孤独な3人です。

この3人、最後までほとんど変わりません。映画ですから変わったように見せてはいますが、ポールは最後まで上から目線のマンスプタイプですし、アンガスの反抗心がおさまることはありませんし、メアリーの心の傷が消え去ることはありません。

皮肉っぽい物言いで申し訳ないのですが、この映画で描かれるのは、そんな3人がちょっとだけひとりじゃないと思える時間を持つことができたということであり、なぜそれが出来たかは、それぞれがこれまで隠していた過去を正直に語ったり、自分の弱さを見せたからです。

メアリーは自然体で生きている女性であり、それゆえ強さを持っているわけですが、パーティーのシーンでは息子を失った悲しみに押しつぶされて酔いつぶれてしまい、ポールやアンガスに介抱されることになります。

アンガスは実の父が精神科の施設に入っていることを隠したままなんとかボストンへ行こうと画策しますが、結局最後はポールにすべてを話して行動をともにし、それがラストでポールに人生の窮地から救われることにつながっていきます。

ポールは、アンガスの前で「嘘をつかないバートン男子」の殻を捨て去り、自己保身の醜さをさらけ出し、結果として教師と生徒という上下関係を捨てています。

でもやはりこの3人のつながりが一瞬のものです。なぜかと言いますと、もちろん一義的には最後にポールが去っていくからですが、映画的に言えば、ポールとアンガスの二人は、それぞれ自分をさらけ出すシーンにおいて、二人同じように、これは二人だけの秘密だとしているからです。

結局、3人はこれからも変わらぬ人生を歩んでいくんだろうと思います。

以下、酷評に近いですのでご注意を…

読まれる方は、ひねくれた見方をするやつだなあ程度に読み流してください。

まず、予想していたコメディテイストでテンポよくという点もあまりうまくいっているようには思えません。

これはかなり個人的な価値観からくるものではありますが、まずポールの人物像にコメディ的愛らしさが感じられません。すでにポールはマンスプレイニングだと書きましたが、生徒たちへの態度は信念なき意地悪になっていますし、すぐに古典からの引用するのも人を見下しているようにしか見えませんし、体臭にしても斜視にしても他人を教え諭すための武器に使われています。もちろん映画がポールをこういう人物に造形しているという意味です。

クリスマス休暇なのに、生徒たちを叩き起こして雪の中を走らせる必要はないと思いますけどね(笑)。

それに、残る生徒を議員のバカ息子(ゴメン…)、裕福な父を持つアメフト男子、韓国人の留学生、モルモン教徒としているのもなんだかあざとい感じがします。早々と消すのであれば、何も議員のバカ息子や韓国人やモルモン教徒にすることもないように思います。さらに、そのバカ息子にメアリーを侮辱させ、ポールにナイフを叩きつけさせるシーンもわざとらしいです。

といった見方をしてしまいますので、映画の流れもあまり軽やかには感じられず、特に中盤などはテンポも上がらずかなりかったるく感じます。なにか変化があるわけでもなく、説明的なシーンが多く、ラストシーンに持っていくための長い前置きのようです。

学校の事務職の女性からパーティーに招待されるシーンでも嫌なシーンが多いです。映画はその女性があたかもポールに好意を持っているかのように描き、そしてひっくり返します。アンガスはその女性の姪を紹介され、二人は気があったらしく、と言うよりも最初からそのために登場させていることを隠しもしない描き方で結局二人にキスをさせます。そして、あの冷静で知的なメアリーにはパーティーの席なのに唐突に自分を失うような状態にさせます。

ポールがハーバード時代の旧友と出会うシーン、ドラマ展開の上でも唐突すぎます。その上、ポールの過去をすべて言葉で済ませてしまっていますので、ポールの真意がわかりません。あの嘘をアンガスの前ですらすらと言えるだけの関係をそれまでのシーンで築けているとは思えません。

ポールという人物に愛嬌が感じられないというのはこういうところからで、あれですと平気で嘘を言える人物にしか見えないということです。

そしてラストシーン、アンガスが父親と面会したことを知った母親が再婚相手の夫とともに怒ってやってきます。

どうも腑に落ちません。アンガスはあの母親やその夫と一緒に休暇を過ごしたかったんでしょうか。バートン校へやってくるまで学校を転々としていると言い、その理由が母親への反抗心だと言っていたと思いますが、その反抗心があるのならセント・キッツ島なんかに行くものか!というのが自然に感じます。それなのに何度も母親と一緒に過ごしたいと懇願していました。

なんだかアンガスへの愛情が感じられる母親じゃなかったんですが、アンガスと母親のシーンがあればまた違った姿を見せていたということなんでしょうか。

で、結局、ポールはこれまで何十年も守ってきた自分をあっけなく捨て去ります。んー、なんだか取ってつけたような、と言いますか、つくりすぎたオチに感じます。

こんな見方しかできなくごめんなさい…。