ザ・ホエール

父娘、ゲイ、宗教、そして人は人を救えるのか…

うんざりするほど(笑)予告編を見せられた「ザ・ホエール」です。その印象からベタな父娘ものだろうとパスかなあと思っていたのですが、私にとっては「ブラック・スワン」以来のダーレン・アロノフスキー監督ですので思い返してポチッとしました。

ザ・ホエール / 監督:ダーレン・アロノフスキー

原作は舞台劇「The Whale」

映画中ごろにいたり、これは舞台でやったほうがいいなあと思い始めて見ていたのですが、今調べましたら、やはり原作は同名タイトルの舞台劇です。作者はこの映画の脚本も書いているサミュエル・D・ハンターさんで、現在41、2歳の方です。2011年にワークショップとして制作され、初演は2014年です。その舞台の動画がありました。

Marin Theatre Company

ダーレン・アロノフスキー監督はこの舞台を2012年に見て映画化を望んだけれども、チャーリーを演じる俳優が見つからなかったので長く保留になっていたとウィキペディアにはあります。

映画はわりと舞台劇に忠実に沿っているようで、それがあまりよい結果に結びついていないように思います。一番の問題はワンシチュエーションで単調になっているということです。

結局映画の流れとしては、最初に超肥満のチャーリーというインパクトある現在を見せれられ、その後はなぜそうなったのか、過去に何があったのかが会話の中で明らかにされていくというパターンの繰り返しになりますので、率直なところ映画も中ごろになりますとちょっと鬱陶しくなってきます。

映画のシナリオを専門にしている脚本家に任せるべきだったということでしょう。

アメリカ人は『白鯨』好き…

『白鯨』って結構映画のネタに使われることが多いように感じます。ウィキペディアには「アメリカ文学を代表する名作、世界の十大小説の一つとも称される」とあり、そもそも「世界十大小説」って何? というのは置いておいて、難解かつ聖書からの引用が多いとありますので、そうしたところがインテリ層には好まれるということかも知れません。読んでみようかな…。

あらすじを読む限りでは、映画がその『白鯨』の物語を直接取り入れているようにはみえませんが、宗教絡みの物語という点では何らかのインスピレーションを得ているのかも知れません。それに娘のエリーが書いたエッセイ(読書感想文のようなもの…)が『白鯨』を読んでのものでした。

チャーリーが病的肥満に陥ったわけ…

最初に書きましたようにベタな父娘ものだろうと見始めたのですが、執拗に登場する布教活動の青年トーマス(タイ・シンプキンス)や看護師リズ(ホン・チャウ)の不可解な言動、そしてチャーリー(ブレンダン・フレイザー)がオンライン講義でしきりにいう「自分の気持を正直に書け」の言葉と『白鯨』に関する誰かのエッセイの引用と進み、娘エリー(セイディー・シンク)の攻撃が一向にやまないことにいたり、これは結構深いかな? と思ったのですが、結局ベタではないものの父娘ものに間違いはありませんでした。

疑問の多くはリズが説明してくれます。

チャーリーは大学の教師をしています。8年前までは妻メアリー(サマンサ・モートン)と娘エリーの3人でしあわせに暮らしていました。シーンとしてはフラッシュバックで海辺のシーンがあるだけです。おそらくあれはちょうど8年前というシーンでしょう。海辺の少女エリーをやっていたのはセイディー・シンクさんの妹だそうです。どことなく似ている感じがしました。

チャーリーの教え子にアランという青年がいました。アランの両親はニューライフというキリスト教の宗派の普及に努めており(宣教師だったか…)、アランもその道に進んでいたのですが、チャーリーと出会い、愛し合うようになり、宗教心との狭間で苦しみはじめ、とうとう自殺してしまいます。

リズはアランの妹です。リズは、アランの自殺が契機なのか、もともとなのかはわかりませんが宗教は大嫌いだと言っています。自分は養子だとわざわざ説明していましたし、リズが、パンパンに膨れ上がったアランの遺体(入水自殺だから…)を確認したのは自分だとチャーリーにぶつけますとチャーリーは自分は親族だと認められなかったとわざわざ言っていました。こういうところが映画的じゃないんです。その説明にしても、宗教青年のトーマスをわざわざ部屋の外に出して対面で説明するというのはおよそ映画的ではありません。チャーリーに声が聞こえることはわかっているのにです。

ところで、チャーリーはアランの死後、ショックで病的な肥満に陥っていくわけですが、リズがアランはパンパンに膨らんでいたと語った時に、チャーリーの病的肥満をそれに関連させているのかな(シナリオ上という意味…)と思ったんですがどうなんでしょう。

父娘、宗教、そして他人は救えるのか…

死期を感じたチャーリーは娘エリーを呼びます。

チャーリーは、エリーに会わせて欲しいと母親メアリーに頼んでいたのに拒絶されてきたと言っていたのに、どうしてメアリーは認めたんでしょう。死にそうだからとでも言ったんでしょうか? メアリーは自分が裏切られたと思っているから拒絶してきたわけで、たとえばそれは、ゲイであるにもかかわらず子どもが欲しいがためだけに自分と結婚したとの言葉に現れているわけですから、やはり、しあわせそうに抱擁し合ったり、怒りを感じさせない一連の振る舞いには違和感を感じます。

舞台ですと気にならないと思いますが、やはり映画は第三者的に見る視点が強くなりますので人物像に違和感を感じるのはだめですね。

エリーは一貫してチャーリーに攻撃的です。どうやら日常的にそのようで、それはチャーリーが自分たちを捨てていったことから始まっているようです。メアリーはあの娘は邪悪だと言っています。実際に、チャーリーの姿を写真に撮りフェースブックにあげて、燃やせば脂肪が燃え上がるだろう(みたいな感じ…)のコメントをつけたり、トーマスの告白、実はトーマスは宗教活動に悩んでおり、お金を盗んで逃げてきているとエリーに語っているのですが、その告白を録音して両親に送りつけたりします。

という、父娘ものだと思ったのになんだかごちゃごちゃと面倒な話が、それも説明台詞で続くという単調な展開もやっと終盤に入ります(ペコリ)。

チャーリーのもとにトーマスがやってきます。トーマスは家に戻り宗教活動を続けることにしたと言います。エリーが両親に送った自分の告白がかえっていい方に進み、お金くらいなんだ、戻ってこいと言われたと喜んでいます。

あの娘は君を救ったんだというチャーリーに、トーマスはあなたを救いたいと言い、聖書の1ページを開いて読み上げます。

もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

ローマ人への手紙 (口語訳)

そのまんまです。同性愛や肥満と宗教心を対比させて宗教心に生きる道を説いています。

チャーリーは静かに怒りトーマスに家に帰れと言います。その一節は、自ら(多分そうだと思う…)アランの聖書にマーキングしたところであり、それがゆえに苦しんできたチャーリーということです。なお、トーマスがその一節を持ち出したのは、トーマスが眠っている間(エリーが睡眠薬を盛った…)にアランの聖書を見て知ったからです。

なかなか父娘ものに入れません(笑)。

エリーがやってきます。落第しそうだからチャーリーに課題のエッセイを書いてくれといっていたものを提出したのにバツだったとキレています。チャーリーは読んでみてくれと言います。読まずに出したのかい? というのはツッコミどころではありません(笑)。

そのエッセイは何年か前にエリー自身が『白鯨』について書いたエッセイだったのです。チャーリーはメアリーがくれたと言っていました。ちょっと都合がよすぎます。それに、そのエッセイの内容自体に特別意味があるわけではなく、エリーが「自分の気持ちを正直に書いている」ということから、父チャーリーから娘エリーへの最後のメッセージということがポイントということです。

とにかく、エリーが読み上げている間に、チャーリーは猛然と立ち上がりエリー向かって歩き始め、そのまま仰向けに倒れていきます。

舞台劇なら面白いでしょう

基本、会話劇ですので舞台であればテンポよく進めば面白いでしょう。でも映画の会話劇は掛け合い要素が強くないと面白くありません。そこにどんなに哲学的な、宗教的なテーマが入っていようと説明的なものではダメで、情景として、あるいは情感としてそのテーマが浮かび上がってこないと心まで響きません。

それに舞台劇の中継のような画で動きのないことが致命的です。ただ、チャーリーを演じたブレンダン・フレイザーさんは顔だけでしか演技できないという制約にもかかわらずとてもよかったと思います。

チャーリーのビジュアルにとらわれて何がテーマかはっきりしないままに終わってしまった映画です。