不幸にまどろみつつ暴力への誘惑を内在化する若き見知らぬ者たち…
見ていないのですが、前作が「佐々木、イン、マイマイン」というちょっと気になっている映画の内山拓也監督です。それに磯村勇斗さん、岸井ゆきのさんの名前がありますのでどんな映画かと楽しみではあったのですが…。
不幸にまどろむ若き者たち…
なんとも興味深い映画です。このところの日本の20代、30代の映画監督の価値観や社会認識の多くが詰まっているのではないかと思います。
基本的は、そうした若き映画監督たちの題材にされがちな不幸物語なんですが、この映画はちょっと違っています。不幸を物語として消費している感じがしません。おそらくですが、その訳は主人公が監督の意思を代弁していないことからきているのではないかと思います。
風間彩人(磯村勇斗)と風間壮平(福山翔大)の兄弟がいます。家族関係など二人の人物背景は小出しにしか語られませんので、全体像がわかってくるのは後半になってからです。それもかなり曖昧にです。
戸建ての家に彩人、壮平、そして母親の麻美が暮らしています。家族は借金を抱えているらしく、彩人は昼は建設業(シーンはないがヘルメットを持って自転車を走らせている…)で働き、夜はカラオケバーを一人で営業しています。彩人にはかなり疲労感が出ています。
壮平は格闘技(興味がないからなんだかよくわからない…)でタイトルマッチを行うような選手です。終盤にその試合シーンがあり、映画的にはクライマックスになっています。壮平は家族の不幸物語そのものにはあまり絡んできません。
家族の苦難は借金の返済のせいもありますが、映画が大きく描いているのは母親麻美が精神を病んでいることです。ひとりで日常生活を送ることができる状態ではありません。食事の際にも限度というものがなく、卵かけご飯に醤油や塩をあるだけ掛けて平気で食べます。台所の水を出しっぱなしにして水浸しにしたり、卵を焼き続けたりと常時介護が必要な状態です。
しかし、彩人には誰かに頼ろうという気はなく、かと言って介護しようとするわけではなく、言ってみれば放置状態です。麻美は頻繁にスーパーの商品を持ってきてしまうらしく、彩人が定期的にお金を支払って謝罪しています。また、麻美が近くの畑の野菜を抜いて荒らせば、彩人はただただ土下座して謝罪するだけです。
映画は約7、8割方、この家族の不幸物語の現在と過去を描くことに費やされています。
フラッシュバックがわりと唐突に、また小出しに入ります。父、亮介は元警察官と思われます(はっきりしない…)。幼い壮平にボクシングのミット打ちをさせるシーンや麻美とともに4人の幸せそうなシーンが挿入されています。亮介は誤認逮捕というミスを犯したらしく、おそらくそれがもとで退職したのでしょう。そして、夫婦でカラオケバーを始めるために店を買ったらしく、しかしながら、亮介が何らかの理由でお金をどうにかしてしまったのか、結局、借金を抱えて自殺したのではないかと思います。
という悲惨な状態に置かれた彩人なんですが、本人にはこの状況から脱しようとか、怒っているとか、また、すでに書きましたが助けを求めようとかの意思といったものがまったく感じられません。苦しそうにはみえてもその状態に甘んじているようにみえます。
不幸にまどろんでいるといいますか、自己責任という価値観が内在化しているようでもあります。
孤立していないのに孤独な若き者たち…
この彩人、決して孤立しているわけではありません。
彩人には恋人、日向(岸井ゆきの)がいます。看護師をしており、夜勤明けに彩人の家に来て朝食を作ったりしています。麻美の奇妙な行いを気にする素振りもありませんので、その付き合いは昨日今日のものではないということです。
その付き合いの程度を見せるためでしょうか、日向が彩人に、する?と聞いて、長いディープキスのシーンがあり、その後ガラス越しのセックスシーンがあります。あれ、必要ですか? あのシーンがあることで彩人や日向の人物像がなにか変わりますか?
また、彩人には親しい友人、大和(染谷将太)がいます。時々カラオケバーに寄ったりします。終盤にこの大和の結婚披露パーティーがあり、このときに映画の重要ポイントである事件が起きるわけですが、それはそれとして同級生たちもわりと彩人を気にかけています。決して孤立しているわけではないということです。
壮平も孤立などしていません。格闘技のジムではタイトル戦をする実力があるわけですから期待された存在ですし、警官になった同級生とはかなり親しそうで、ランニングの途中でふざけ合ったりしています。
決して社会から孤立しているわけではないのに、兄弟二人とも社会との関わりに意識がいっているようにはみえません。あの麻美の状態からすれば何らかのサポートも得られると思われますがその気もなさそうです。逆の言い方をすれば、麻美の行為は社会的には迷惑行為であるにも関わらず放置しているということでもあります。
これも同じようなことで、助けを求めることを恥ずかしいと思うのか、やはり自己責任という価値観の内在化でしょうか。
理不尽な暴力と合意ある暴力…
というようにこの映画は、始まってからの7、8割はそのベクトルが現状容認と過去に向かっているわけですが、終盤に入りますとその様相が一変します。
彩人が大和の結婚披露パーティーに向かおうとカラオケバーを閉めようとしていますと3人の男たちが入ってきて酒を出せと引き下がりません。すみません、閉店ですと何度頭を下げても男たちはいちゃもんをつけ絡んできます。そしてついには彩人の頭をビール瓶で殴りつけ、さらに殴る蹴るの暴力行為です。
警官二人がやってきます。しかし、この二人は映画前半で若者に理不尽な職質をかけていた警官たちであり、その時にも彩人が間に入ったために逆に彩人にも理不尽さをむき出しにしてきた悪徳警官たちです。
警官たちは血だらけの彩人を保護するわけではなく、逆に彩人にも暴力行為を働き、パトカーに押し込んで連行していきます。そして、その途中、彩人に脈がないと気づいた二人は病院へ直行します。彩人は死にます。
かなり意表をついた展開です。主人公が死んでしまいました。それも、理不尽な暴力に抗うこともなく、無念さの叫び声を上げることもなく、あっけなく死んでしまいました。自らの置かれた状況について社会に異議申し立てすることもなく、誰にも助けを求めることもなく死んでしまいました。
主人公が死んでしまった?!
なのに映画は終わりません。壮平の格闘技タイトルマッチが行われます。軽量や試合前の壮平の緊張状態を撮ったりと映画的にもかなり比重が置かれています。そして、試合開始、なんと5分以上もあろうかという3ラウンドの試合をワンショットで撮っています。仮に何らかの映像処理の結果だとしてもあれだけの画が撮れるなんてすごいです。それに演じている福山翔大さんって、何者?! と思います。
結局、壮平の勝利で終わりますが、映画は明らかに彩人への理不尽な暴力と、壮平の合意ある暴力を対比させています。
その意図は私にはわかりません。言えることは、多くの映画ではつくり手の意識は主人公に反映されるものですが、この映画の彩人は決して内山拓也監督の代弁者ではないということです。
では、内山拓也監督の意識はこの映画のどこに現れているのか。
若き見知らぬ者たちの暴力への誘惑…
この映画には拳銃や拳銃もどきを使った妄想(的)シーンがたくさんあります。
彩人が自転車を漕ぎながら自らのこめかみを拳銃で撃ち抜くシーン、おそらくこれは父親の自殺場面の妄想が自らの自殺願望となって現れたということだと思います。
壮平には警察官の幼馴染みがいます。ランニングの途中でその警察官の後頭部に指ピストルを当てるシーン、そして逆にその警官がタイトルマッチ後(だったか前だったか…)の壮平の後頭部に同じように指ピストルを当てるシーンがあります。
父親がこめかみを撃ち抜くシーンもあります(あったと思うけどわからなくなってきた…)。
そして、ラスト近くには「若き見知らぬもの」が彩人を死に追いやった悪徳警官の後頭部を拳銃で撃ち抜くシーンがあります。そのシーンは俯瞰で抑えられています。
さて、誰の妄想シーンなんでしょう。
社会に拳を上げない若き者たち…
多くの若き映画監督たちが社会の矛盾や理不尽さに追い詰められる若者を描いています。その多くが単に物語として消費するだけに終わっており、その矛盾や理不尽さに深く迫ろうとしているものが少ないことは残念ではありますが、少なくともこのことは「若き見知らぬ者たち」がそうした状況に置かれていることの現れであることは間違いないでしょう。
その点で言えば、この映画からはその少ない側の視点が感じられます。つまり、今の若き者たちが社会に拳を挙げないことがちょっとだけわかるということであり、逆に言えば、そのこと自体が矛盾に満ちたことであり、とても危険をはらんでいることを示しているということです。
ちょっと残念なのは映画のつくりがあまりよくないことです(ゴメン…)。