アンソニー・ホプキンスさんアカデミー賞主演男優賞受賞!
アンソニー・ホプキンスさんが、今年2021年のアカデミー賞主演男優賞を受賞しています。アカデミー賞自体にも受賞作品はできるだけ見ようと思う程度の興味しかなく、授賞式も見たことがないのですが、それでもネットニュースのタイトルに今年の授賞式に「異例」とか「予想外」などの言葉がついていたのは記憶しています。
今、1、2記事を読んでみましたらこういうことのようです。通常は作品賞を最後に発表するところ、昨年亡くなったチャドウィック・ボーズマンの主演男優賞受賞を予想して、発表順序を入れ替えて主演男優賞を最後にしたにも関わらず、予想外のアンソニー・ホプキンスさん受賞となり、さらに本人の中継もなく、スピーチなしの尻切れトンボで終わってしまったということのようです。
期待値が高かったせいか…
アンソニー・ホプキンスさんの演技はアカデミー賞受賞も当然かなとは思います。
それはそれとして、この映画に対する期待値が高かったのは、
監督は、戯曲を手掛けたフロリアン・ゼレール。認知症の父親の視点で描くという画期的な表現を成し遂げた。何が現実で何が幻想か、観る者は主人公と共に、迷宮のようにスリリングな記憶と時間の混乱を体験し、すべてが明かされた後、冒頭から観直したい衝動に駆られる。(公式サイト)
という点で、特に認知症の人の「記憶と時間の混乱を体験」の言葉に、「記憶」と「時間」を並列ってどうよとは思ったものの、あるいはそれを構成なり映像なりで感じられるのではないかとむちゃくちゃ期待したわけです。
ちょっと過剰な宣伝コピーでした。それに、ことさらそうした意図がある映画ではないようにも思います。
描かれているのは、認知症を患った父親(アンソニー・ホプキンス)が記憶の欠落や混濁によって自分の記憶と目の前の現実が結びつかなくなっている姿であり、見ていても、ああ、混乱しているなと、父親の視点ではなく第三者的な視点で見るようにつくられています。
それに元が舞台劇ということからか、テンポが映画的ではなくのろく感じられます。
最初から父親が認知症であることはわかっているわけですから、目の前の人物が父親の認識と合わないのであれば、残る興味は誰と間違えているかしかなく、それが明かされるのを待ってしまいます。それがラストまで続くわけですから、いくらアンソニー・ホプキンスさんの演技で持たせようとしても正直飽きがきます。
やはり舞台と映画の違いじゃないでしょうか。舞台劇からどのように脚色されているかはわかりませんが、この映画のままでもほぼ舞台劇として成立すると思います。これが舞台であれば俳優の熱量で十分持つでしょう。
ただ、映画的には何かが足りないということです。もっと細かく切り替えしてテンポを上げるとか、認知症の視点を強調するのであればもっと視覚的なものを活用するとか、いろいろな方法が考えられますが、結果、この映画は舞台演出の視点でつくられているような気がします。
要は退屈だったということです(ペコリ)。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
ストーリー自体にあまり意味はなく、父親の混乱が最後まで描かれ、結局父親は施設に入っており、幼児がえりしたという話です。
なんだか身も蓋もない言い回しで冷たく突き放すような書き方をしてしまいましたが、そういう冷めた印象を受ける映画です。その意味では認知症が自分を失うということであればそれは誰もが恐れることであり、妙に感傷的に描かれるよりもかえって寒々とした感情が湧き上がってくるとも言えます。
父親(アンソニー・ホプキンス)はロンドンのフラットで一人住まいです。冒頭、オペラのアリアをヘッドホンで聞くシーンから始まっており、住まいの上品さなどとともに父親のこれまでの人生のようなものが表現されています。インテリということでしょう。
このシーンではないのですが、ビゼーの「真珠採り」から「耳に残るは君の歌声」が使われており、そこからググってみましたら下記の記事がヒットしました。冒頭の曲は「ヘンリー・パーセルのオペラ「アーサー王、またはブリテンの守護神」の挿入歌“What Power Art Thou?”」だそうです。
「耳に残るは君の歌声」は次の動画(映画にカルーソーが使われていたわけではありません)の1分半くらいからですが、
その前のレチタティーヴォの対訳を見ますとかなり意味深です。もちろんオペラは愛する女性への思いを歌っているわけですが、自分が認知症であると自覚する(ことができるのであれば)父親の思いのような言葉です。
娘のアン(オリヴィア・コールマン)が父親のもとに駆けつけます。すでに認知症の症状が出ている父親にヘルパーを雇っているのですが、父親が助けなどいらないと譲らないために辞めてしまったようです。
アンが説得しようとしますが父親は聞き入れません。アンは愛する人と暮らすためにパリへ行くのであまり会いに来られなくなると言います。父親は驚き、英語も話せない奴らだぞ(監督はフランス人)と小馬鹿にした言い回しで答えます。
ある日、父親はリビングで見知らぬ男と遭遇します。
男はポールと名乗りアンの夫だと言います。父親がアンは離婚しているはずだと言いますと、男は結婚してもう10年になると答え、さらにここは自分たちのフラットだと主張します。父親は自分のフラットだ!とさらに混乱し、アンはどこだ!と叫び始めます。アンが帰ってきます。
しかし父親には帰ってきた女性がアンに見えません。アンはどこだ?と言いますと、女性は、どうしたの、私よと答えます。
父親は混乱しつつ自分が間違っているのかもと、アンにあの男は誰だ?と尋ねます。アンは離婚して夫はいないと答えます。振り返ると男はいません。
父親の記憶はかなり混濁しています。アンではないアンに不安の言葉をもらします。
この女性とのシーンはラストシーンと対になっています。
新しいヘルパーがやってきます。父親は機嫌がよく、自分はタップダンサーだったと言い踊ったりします。ただ、後にはこの女は誰だ?とか、助けなどいらん!などと怒り出したりします。
またある日、キッチンで別の見知らぬ男と遭遇します。男はここは自分とアンのフラットだと言います。
男はアンに父親を施設に入れるべきだと主張し、互いにやや口論口調になります。それを父親が耳にしています。男が父親にあなたはわれわれを苛つかせるとやや興奮気味にいうシーンもあります。
父親はアンの妹のルーシーの話をよくします。画家でありすばらしい娘だが世界中まわっているので随分会っていないと誰彼なく話しています。しかし、ルーシーはすでに事故で亡くなっています。どこかに病院のベッドに横たわるルーシーのカットが入っています。
その次のシーンだったかと思いますが、父親が寝室で目覚め、ドアを開けて出ようとしますとそこは病院の廊下で看護師(介護士?)が誰かと話をしています。
また、誰の妄想だかよくわかりませんが、アンが寝室で眠る父親の首を絞めるシーンがあります。
そしてラストシーンです。父親がベッドから起き窓のカーテンを開けます。この次のカットを記憶していませんが、これまでも父親が窓から見る街のシーンがあり、アンが帰っているところや男の子がボールを蹴っているところがありました。ここでは街のカットはなく、女性が入ってきて父親が振り返るカットだったかも知れません。
その女性は看護師(介護師?)であり、アンを名乗っていたアンではない女性です。続いて看護師(介護士?医師?)の男性が入ってきます。最初にリビングでアンの夫だと名乗っていた男性です。
女性は、アンはパリにいて週末には会いに来てくれると言い、天気がいいので後で散歩に行きましょうと話しかけてきます。
父親は幼児がえりしたように女性の胸に頭を預け、涙を浮かべながら、ママが…とか、ママ…とかつぶやいています。
認知症は家族なり周囲の問題
認知症の患者が見る世界がどんなものかは知るよしもありませんが、記憶障害ということから想像すれば、暴力行為や徘徊などの他人を傷つけたり、自分自身が傷つくような行為がない限り、本人の記憶を否定することは止めるべきということだと思います。
この映画とはちょっとずれた話ではありますが、記憶を失うということは、知らないことは存在しないということと同じようにその人にとってみれば存在しないわけですから、その人にとって見れば本来は迷いなどないはずで、もし迷いが生まれるとするならば、家族なり周囲がその記憶を否定することからくるのだと思われます。
また、なぜ認知症に関する映画がつくられるのかは、いま現在認知症でないと自覚する自分が認知症になることを恐れること以外にはなく、その時おそらく自分は完全なる孤独の闇の中に放り込まれることの恐ろしさを予想するからだと思います。
それこそが「認知症の視点で描く」ことではないかと思います。