ザ・プレイス 運命の交差点

預言者現る

これは舞台劇にすべき内容ですね。

映画では観念的すぎて持たないです。15分もすれば先がみえて飽きてきます。

ザ・プレイス 運命の交差点

ザ・プレイス 運命の交差点 / 監督:パオロ・ジェノヴェーゼ

パオロ・ジェノヴェーゼ監督、前作は「大人の事情」で、こちらもどちらかといいますと舞台劇向きの内容でしたが、それもまだ動きがありましたので持っていましたが、この「ザ・プレイス」はちょっと無理でしょう。

一般的に、頭の中で組み立てたような観念的な映画はつまらないです。

元ネタがあるようです。

公式サイトには「アメリカの大ヒットドラマ『The Booth~欲望を喰う男』(11)を原作」にした、カフェが舞台のワンシチュエーションドラマとあります。

タイトルの「ザ・プレイス」は舞台となるカフェの名前でもあり、ワンシチュエーションですからここですべてが進みます。

このカフェにひとりの男(ヴァレリオ・マスタンドレア)がいます。座りっぱなしです。そこへ次から次へと老若男女がやってきて、自分の望みを語り、男がそれを叶えるためにあれをしろこれをしろと課題を与えます。それが最後まで延々と続く映画です。

公式サイトによりますと相談にやってくるのは9人らしいのですが、しばらくは相談者が何人であるとか、その相談の背景はどうなっているとか、とにかく、相談者が入れ代わり立ち代わりやってきては断片的な話をしていきますので、なかなか整理がつきません。

まあ、そのあたりは意図的にやっていることなんでしょう。

しかし、しばらく見ていますと、同じ人物が課題を実行した結果であるとか、次にどうすべきかを尋ねたりするシーンが続きますので、ああ、なんだ、相談に来るのはある限られた人たちなんだとわかってきます。カフェは常に満席状態であるにもかかわらず男のテーブルだけは別世界です。交わされる会話が「殺せ」だの、「犯せ」だの、「盗め」だのにもかかわらずです。

これ、結構重要な、さらに言えば致命的なことでもあるのですが、この物語にとってはその「場」に全く意味がないということになります。男は何も「the place」にいなくても自分の家にいればいいわけで、あるいは占いコーナーでも成り立つ話であると自ら示しているも同然なわけです。

演劇では舞台に何もなくてもここはカフェだといえばカフェです。ここは戦場だといえば戦場になり、そこで銃声がして人が倒れれば人は死にます。それが演劇のリアルです。

もちろん映画でもそうした手法がないわけではありません。実際、「ドッグヴィル」という素晴らしい映画もあります。

ただ、この映画はその「場」を無視しています。男がカフェにいることに意味がありません。カフェの女性のスタッフが何度も話しかけてきますが、あれは単なるつなぎです。

カフェが閉店しても男はそこにいますし、眠れないとか意味不明なことを言っていましたし、ラストカットでは男は消えていましたので、そもそも存在しないことを示唆しているんでしょうが、あざとすぎます。

よほどイライラしたんですかね(笑)。自分でもなぜこんなにこだわっているのかわかりません(笑)。

ということで、9人の相談者と男の会話が延々と繰り返され、中盤に入りますと、それぞれの相談に関連があることがほのめかされ始めます。

たとえば、修道女の相談者は、神が見えなくなった、もう一度神を感じたいと言います。男は「妊娠しろ」と課題を与えます。盲目の男がきます。彼が視力を取り戻したいと言いますと、「犯せ」と課題を与えます。

こんな感じで9人のうち、2人であったり、3人であったり、かかわらない人もいたりして、それぞれにオチがついて、カフェには誰もいなくなって終わるという映画です。

たとえば、上の男女の場合、ふたりは関係を持ったらしく、女性は確かに妊娠したと感じる、そして幸福に満ちた顔で神を感じることができると答えて去っていきます。男性の方は、課題を達成したのに視力が戻らないと男に訴えます。男は課題を達成していないと言います。実は男性は女性に愛を感じ「犯して」はいないのです。

他には、子どもを誘拐しろとか、10万ユーロと5セントを盗めとかがあり、それぞれうまくまとまったケースもありますし、行かなかったケースもありました。

でも、そんなことどうでもいいことです(笑)。

つくり手にしてみればそれぞれに何らかの意味を込めているのでしょうが、何も伝わってこない以上、無理やりその意味を読み取ろうとしてもそれこそ無意味な行いというものです。

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]

ドッグヴィル プレミアム・エディション [DVD]