父は憶えている

明りを灯す人」「馬を放つ」に続く、アクタン・アリム・クバト監督三部作の最終章

キルギスのアクタン・アリム・クバト監督の2022年の最新作です。昨年の東京国際映画祭での上映がワールドプレミアだったようです。ビターズ・エンドが製作に入っているということもあるのでしょう。

父は憶えている / 監督:アクタン・アリム・クバト監督

変わりゆくキルギスか…

過去には2010年の「明りを灯す人」と2017年の「馬を放つ」を見てきていますが、その2作もこの映画も主演は画像の男性、監督本人です。

過去2作のレビューを読みながら思い返してみますと、この映画からはどこか荒廃したキルギスの印象を受けます。ゴミの問題がひとつのテーマになっていることもありますが、「明りを灯す人」で感じた風景の美しさもあまり感じられませんし、「馬を放つ」にあった自然とともに生きる遊牧という価値観もまったくなくなっています。

物語自体もあまりのどかさやほんわか感が感じられるものではありません。

23年前にロシアに出稼ぎ(だと思う…)に行ったきり行方知れずになっていたザールク(アクタン・アリム・クバト)がキルギスの生まれ故郷に帰ってきます。しかし、今のザールクは記憶と言葉を失い、自分が誰かも、そこが故郷であることもわからないようです。

そして、戻った我が家にはその昔仲睦まじく暮した妻ウスムナイの姿はありません。夫ザールクは死んだものと思い再婚しているのです。

というザールクとウスムナイの話を軸に、あちこちにゴミが放置される村の荒廃やイスラムの信仰のことなどが描かれていく映画です。

ゴミとイスラム…

概要としてはそういう映画なんですが、テーマと思しきいろんなことが最後までまあまりはっきりせずに進みます。

ザールクは帰った早々、ゴミを拾い集めることに執着します。村にもゴミが散乱していたり、村の郊外には村人たちが捨てたゴミが山のようになっています。村人の中にはザールクは頭がおかしくなったという人もいるわけで、つまり、その昔、日本にもあった光景ですが、ゴミも目の前から消えればなくなるものという価値観なわけです。そのゴミがいずれ自分たちを脅かす存在になることに気付けない人間の愚かさということです。

それを批判的に描いているんだろうとは思いますが、それもなんとなく中途半端に終わっています。記憶を失ったこととゴミに執着することに関連性があるのかないのかがはっきりせずに描かれていることが原因かと思います。ドラマとしての連続性の問題でしょう。

海外のレビューには、ザールクがロシアで清掃の仕事をしていたと書いているものもあります。ただ、映画自体にはそのことを示すものはなかったように思います。

頻繁にでてくるイスラムについても、その描き方がはっきりしません。イスラムについては「馬を放つ」にも書いていますが、アクタン・アリム・クバト監督にはイスラムへの懐疑のようなものがあるんじゃないかと思います。

ウスムナイは村の有力者(のようだがよくわからない…)と再婚しています。夫の描き方がよくわからないのですが、横柄なところがあるようにもみえますし、孤独を愛するようなところもあり、ただ、最後にはザールクのもとに帰ろうとするウスムナイをレイプしたりと、人物像がはっきりしていません。

この夫とイスラムの導師や布教活動する人々と何らかの関係が描かれるのですがどうもはっきりしません。ひとつはっきりしているのは、夫の母親が全身を覆い顔だけ出すヒジャブ(じゃないかもしれない…)を着用し、かなり厳格な信仰を持っているようでウスムナイにもそれを要求しています。

この夫が仮に有力者とするのなら何をしているのかとか、そうしたことがよくわかりません。キルギスなら説明しなくてもわかることが私にはわからないということもあり得ますが、映画としてはなにかが足りません。

白い木立はどういう意味…?

結局、ザールクとウスムナイの夫婦愛が軸であることは間違いなく、ザールクにもなにかぼんやりと妻との記憶があるように描かれてはいるものの最後まで具体的な変化がなく進みます。これがこの映画の一番の問題でしょう。

映画の冒頭は木立の間をカメラが舐めるようにゆっくりとバックしてくる(手前に動いてくるという意味…)シーンで始まります。で、その木立が真っ白ですので、何だろう、枯れているのかなあとか見ていたのですが、ラストシーンでそれが何なのかわかります。

ラストシーンでは、ザールクが木立に白い塗料を塗っているのです。これは何を意味しているのでしょう。そんなことしたら木は死んでしまいますよね。まったくわかりません。

で、とにかく、ザールクとウスムナイの間は、ザールクが変わらないわけですからウスムナイが変わる以外に進展はなく、ウスムナイはザールクが生きていることを知ったときから悶々とし、ついにはイスラムの導師に相談します。ウスムナイは導師から男性はタラークと3回言えば離婚できるが、実は女性の方からもクルと言えば離婚できることを教わり、夫に向かってクルと言います。夫は怒ってウスムナイをレイプするということになります。

ラストシーン、ザールクの家では、息子夫婦(書いていませんが息子は結婚し娘もいます…)が村人を集めてお祝い(なんのだったか忘れた…)をしています。そこにウスムナイがやってきます。ウスムナイはヒジャブを脱ぎ去り美しいドレス(だったか、象徴的にはそういうこと…)を着ています。

ウスムナイが歌い始めます。その時、ザールクは木立の木々に白い塗料を塗っています。

アクタン・アリム・クバト監督のメッセージ

公式サイトにアクタン・アリム・クバト監督のメッセージがありましたので引用しておきます。また、他のサイトにその続きがありましたので併せて引用しておきます。

本作は人間の愚かさを描いています。記憶を失った主人公は、人間性の悲劇のメタファーです。彼はリトマス試験紙のような存在で、道徳の指標でもあります。若い家族の奔放な感情、プライド、女性に対する虐待、人々の間の憎しみ、イスラム教の過激化、汚職、大気汚染、大量のゴミで台無しにされた環境、このドラマチックな物語において、「愛」は理性を取り戻すための儚い希望のようなものです。
歴史的記憶や自らのルーツ、精神的価値観を失った人々が、この冷酷な世界で道徳が守られるかどうかについて語るひとつの試みなのです。

日本の公式サイト

ESIMDE is a final part of another trilogy where were filmed: THE LIGHT THIEF, about a man who brings the light of goodness to people and CENTAUR, about a man who has lost his faith and searches for God. Three confessions about the tectonic fractures of human soul of a man from the post-Soviet space and this is what I live and worry about.

https://www.diversion-th.com/this-is-what-i-remember/

「父は覚えている」は、人々に善良さをもたらす男の物語である「明りを灯す人」、そして信仰を失い神を求める男の物語である「馬を放つ」に続く三部作の最終章です。これらはソ連邦崩壊後に起きた人間の心の変化についての3つの考察であり、またこれは今私が最も憂慮していることです。

(私の翻訳です)

なるほど…。