3つの鍵

1階は性衝動、2階は苦悩、3階は抑圧、そして開放

息子の部屋」「ローマ法王の休日」「母よ」のナンニ・モレッティ監督です。昨年2021年のカンヌ映画祭のコンペティションに出品されています。受賞はありませんでした。「TITANE/チタン」がパルムドールに選ばれた年ですから、この映画の傾向じゃそりゃ無理でしょう。

3つの鍵 / 監督:ナンニ・モレッティ

時が解決する?

ローマの3階建てのアパートメントに住む4家族の話です。公式サイトに3家族となっているのは物語の主体となっているのが3家族だからだと思います。

3つの話が同時に進行します。3階に住む裁判官夫婦と息子の確執が1つ、2階の夫と離れて暮らす女性の孤独が2つ目、そして1階に住む2家族の裁判までいく争いの3つです。

原題は「Tre piani」、英題は「Three Floors」で3階建ての建物を指しています。邦題の「3つの鍵」や公式サイトの「彼らが手にする未来の扉を開く鍵とは?」の「鍵」はこじつけです。

こじつけは言い過ぎでした(笑)。鍵は「時」です。時の流れが解決、いや、解決はしなくとも、いっとき荒ぶれた感情も時が経てばやがておさまるという話です。ただし10年は必要なようです。

ナンニ・モレッティ監督、現在69歳、そうした心境になる年齢ということでしょうか。

3階、親子の確執

ヴィットリオ(ナンニ・モレッティ)とドーラ(マルゲリータ・ブイ)夫婦の息子アンドレアが酔っぱらい運転で歩行中の女性を轢き殺し、アパートメントの1階に突っ込むという交通事故を起こします。

その時、2階のモニカは産気づいて病院へ向かうために慌てて家を出たところで事故を目撃、そして車は1階のルーチョとサラ夫婦の家を破壊します。ですのでこの事故が軸となって3家族が絡む物語が進むのかと見ていましたら、まったく違っていました。

3家族、まったく絡みません。別々の話です。これにはちょっとビックリです。

とにかく、3階家族の話は、父権主義のヴィットリオとそんな父親に子どもの頃から反感を持っていたアンドレア、そして夫に従うことが当たり前と思っていた妻ドーラが、夫の死後、やっと自我に目覚め、離れていったアンドレアと和解するという物語です。

アンドレアは事故後も自分の責任を感じてはいても表に出すこともなく、両親に、二人共裁判官なんだろ!なんとかできるだろ!と悪びれる様子もみせません。ヴィットリオが叱責するもアンドレアは暴力で応えます。ヴィットリオは、もうアンドレアとは暮らせないと言い、ドーラに私か息子かどちらかを選べと迫ります。

5年後、アンドレアが出所します。その間の経緯はなにも描かれていなかったと思います。アンドレアは、迎えに来たドーラに一緒に暮せば自分がダメになる、ひとりで生きていくと言い去っていきます。

10年後、ヴィットリオは亡くなっています。ドーラはヴィットリオの衣服などの遺品を移民への援助団体(多分)に寄付します。そこで出会った男性から思わぬことを聞かされます。自分の娘とアンドレアが田舎で一緒に暮らしており、子どもがいるというのです。ドーラは会いにいきますがアンドレアから拒否されます。

その後、次第にヴィットリオの抑圧から解き放たれたドーラは普段着るものまで変わっていきます。再びアンドレアを訪ねるドーラ、アンドレアにかすかに笑みが浮かび、ドーラの顔が輝き始めています。

2階、モニカの孤独

冒頭のシーンでアンドレアの事故を目撃したモニカです。同じアパートメントに住んでいることから目撃した事故の事実と隣人関係に悩む話かと思っていましたがまったく違っていました。そもそもアンドレアの事故自体が映画の中で大きな問題として扱われていません。

モニカの夫は仕事のために時々帰ってくるだけでほとんど家をあけています。モニカはひとりで子育てしています。3階のドーラに助けを求めるシーンがワンシーンあり、そのとき毎日子どもと二人だけで誰とも話さないと、その孤独感を語っています。

さらにモニカは自分の母親が自分を生んだ後に精神不安定になり、現在も入院していることから自分もそうなるのではないかと恐れています。母親を見舞うシーンがあり医師から遺伝はしないと言われても不安は消えないようです。

もう一つあります。なぜこんなややこしい話を入れ込んでいるのかと思いますが、夫とその兄の関係がよくありません。そもそも夫の仕事がなんなのかも曖昧なのに、その上兄が投資関係の仕事で詐欺を働き、指名手配されるという話を入れています。

モニカは、その兄が夫の留守中にかくまってくれとやってくる妄想をみます。兄は自分たちが不仲なわけはモニカの存在だと言い、ベッドの上で性的なトークを交わします。

このモニカのパートは全体がモニカの妄想ではないかと思えるくらい話に現実感がありません。他の家族と絡むシーンがドーラとのワンシーンだけということもあり、とにかく何もかもがはっきりしません。本当はもっと絡みのシーンがあるのにカットされているのかも知れません。

5年後だったか、10年語だったかにモニカは失踪します。映画はそのまま終わっていました。

1階、思い込みの果てに

これが一番めんどくさい話です。

冒頭の事故のシーン、1階に突っ込ん車の前に5、6歳のフランチェスカが立っています。危うくぶつかられるところだったのかと思いましたら、そうでもなさそうで、と言いますか、このパートもモニカと同じで一切事故の話は出てきません。

どういう意図でこの3つの話をバラバラにやっているんでしょう。これだったら別々の映画にすればよかったんじゃないのと思います。原作があるようですがどう書かれているのか興味が湧いてきます。

Goodreads という書評SNSの記事しか見つからなかったのですが、それを読みますと、へー、こういう話なのか?! と驚きます。

これを読みますと、面倒くさく感じるのは当然かなと思います(笑)。3階ということに大きな意味があり、各階はフロイト学説の、イド(エス)、自我、超自我を象徴していると読んでいます。

1階です。ルーチョ(リッカルド・スカマルチョ)とサラ(エレナ・リエッティ)夫婦は時々向かいの老夫婦にフランチェスカを預けています。老夫婦の夫レナートは認知性を発症し始めています。ある日、レナートとフランチェスカが行方不明になります。公園(森?)で見つけた時、レナートは失禁しており、フランチェスカに膝枕をされています。

フランチェスカは道に迷ったからと言っていますが、ルーチョはレナートが娘に性的いたずらをしたのではないかとの妄想にとらわれます。一度思い込んだものはなかなか頭から離れません。フランチェスカが否定し、警察がその痕跡はないと否定し、フランチェスカを診察した分析医が否定してもルーチョの思い込みは消えず、その後入院したレナートの病室に忍び込み、本当のことを言え!と首を絞めることまでします。

老夫婦の孫のシャルロットが祖父母を訪ねてきます。ルーチョのこともよく知っているようです。シャルロットはルーチョを異性とみてます。シャルロットは祖母がメールに真実を書いているので見ればなにかわかるかもとウソをつきルーチョを家に誘います。シャルロットはいきなり衣服を脱ぎます。ルーチョは服を着なさいと諭しますが、泣き始めたシャルロットを慰めるうちに性行為に及んでしまいます。

シャルロットはその後もルーチョのことが好きだと迫りますが、ルーチョは拒否します。レナートが亡くなり、そしてルーチョはシャルロット(の家族?)から告発され裁判になります。このあたりでシャルロットの母親が登場していたかも知れません。

5年後、無罪の判決が出ます。シャルロット(の家族)は控訴すると言います。どういう経緯だったか忘れましたが、結局控訴はされていません。

10年後、フランチェスカがスペインへ留学する日です。ルーチョとフランチェスカは、空き部屋となっているレナート老夫婦の家に入り、懐かしむフランチェスカにルーチョがあの日なにがあったと尋ねますと、フランチェスカは何もなかったと答えます。

タンゴの演奏が聞こえてきます。表に出ますと大勢の人々がタンゴを踊りながら進んでいきます。見守るルーチョ、フランチェスカ、サラ、ジョルジョ(モニカの夫)と子どもたち、ドーラの3家族です。

性衝動、苦悩、抑圧、そして開放

原作の書評を読んで、3つの話に隠された本当の意味がわかったような気がします(笑)。ただ、原作が本当にそうだとすれば、映画にはうまく表現されていません。

映画は3つの話をシーンとして関連性がないにもかかわらず細かく刻んで交錯させるように編集しています。見ていても意識がうまくつながっていきませんので集中力が続かず長いなあと飽きてきます。要は散漫になってくるということです。

3つの話はそれぞれ単独で完結しています。それを書評のフロイト引用の読みにそって考えれば、1階の物語はルーチョの攻撃性と性衝動の物語であり、2階はその無意識の欲望の発露に苦しむモニカの苦悩の物語であり、そして3階はその苦悩がヴィットリオという抑圧的な存在によって生まれているという物語ということになります。

本当にそうかどうかはこの映画ではわかりません(笑)。