きっと地上には満天の星

ネグレクトの決断、地上に満天の星を見ようとする話ではないのに…

ニューヨークの地下には下水道や地下鉄のトンネル内で暮らす人々がいた(いる?)そうです。その母娘の話です。監督はこれが長編デビューとなるセリーヌ・ヘルドさんとローガン・ジョージさんのふたり、連名です。

きっと地上には満天の星 / 監督:セリーヌ・ヘルド&ローガン・ジョージ

モグラびと(The Mole People)

この映画は「モグラびと ニューヨーク地下生活者たち(The Mole People: Life in the Tunnels Beneath New York City)」というノンフィクションが発想のもとになっているそうです。

このノンフィクションは、ジェニファー・トスさんという方がロサンゼルス・タイムズのインターンをしていた1993年に自らの潜入記として地下生活者のインタビューをまとめたものとのことです。

ただ、どんな内容なのかとウィキペディアなどを読んでみましたら、その真実性には疑問が投げかけられているとの記述もあります。

映画の冒頭のナレーション(だったと思う)はその中の一文とのことです。おそらくこれから発想してふくらませた話なんでしょう。

“JC told me initially that his community had no children. After a moment, he added, ‘We have adults as young as five.’”

JCは最初、このコミュニティには子どもはいないと言った。しばらくして彼は付け加えた。「5歳くらいの大人はいるけどな」と。

母娘愛ではなくネグレクト

この映画は、描かれる母娘が地下生活者であるという意味では件のノンフィクションとの関連性はありますが、基本、物語は養育能力のない母親と娘の話ですので地上でもありうる話です。

母親はジャンキーのネグレクトということです。ただし子どもを放置しているわけではありません。言葉と身体的接触での愛情はありますが、養育能力がなく、子どもに適切な環境を与えられないということです。

それにしても、こうしたネグレクトを描いた映画というのは保護者が母親のケースばかりです。この映画でも父親は登場しませんし話題にものぼりません。こうした描き方に偏っていることは決していいことではありません。

短編のほうが効果的ではないか

映画は約90分、前半は地下のシーン、後半は地上に出てさまようシーン、そしてラスト、どうなるかという展開です。物語としてもっているかどうかは疑問です。映像(カメラワーク)も単調ですので、短編で描いたほうが効果的だったのではないかと思います。

ニッキー(セリーヌ・ヘルド、監督本人)と娘リトルは、実際にそんな空間があるのかどうかはわかりませんが、ニューヨークの地下鉄のそのまた下の地下空間で生活しています。ニッキーは地上と行き来していますが、リトルは地上へ出たことがありません。ニッキーは自分に養育能力がないと判断されリトルと引き離されることを避けているのでしょう。地下には複数人が暮らしているようですが、登場するのはヤクの売人ジョンだけです。

行政の摘発が始まり、ふたりは逃げ惑います。ジョンが自ら役人の前に立ちはだかるように出てふたりをかばっていました。ふたりは地上に逃げます。

映像はほぼ全編手持ちカメラで動き回ります。地下や夜の場面ですので暗い上にアップの画がほとんどです。緊迫感を出そうとしているんでしょうが、全編あれでは見ていて疲れますし、変化がありませんのでその緊迫感にも飽きて倦怠感に変わってしまいます(ペコリ)。

そして、地上です。外に出たことのないリトルの見た目(と想像する)の画が続きます。眩しい光、車、ビル、雑踏などが騒音とともにリトルの目や耳に飛び込んできます。リトルの不安そうな表情、ニッキーの胸に顔を押し付けています。

と、このあたりは割とよかったのですが、なにせ地下のパートも、それにこの後の地上のパートも同じようなカメラワークが続きますので残念ながら埋もれちゃっています。

ニッキーは地上でも逃げ回ります。警察や行政官に見つかればリトルと引き離されるということがわかっているということです。知り合いのレスのもとに逃げ込みます。レスは、ニッキーが迷惑をかけたからどうのこうのとしばらく激しく言い争っていましたが、ニッキーが仕事(売春)をするからと無理やり入り込みます。レスは売春の斡旋やヤクの売買で稼いでいるようです。

ニッキーはすぐに別室に入っていきます。その間、リトルは窓の外を見て、星が見える、死んだ星だとつぶやいています。レスがやさしくリトルに話しかけます。

なんだ、レスは優しいじゃん、と思いましたら、後にニッキーにふたりでここで暮らせ、あの娘で稼げる、つまりペドフィリア相手に稼ごうとしたということでした。

ニッキーはリトルを連れて逃げ出します。そして再び雑踏の中をさまよいます。そして、地下鉄に乗った瞬間にドアが締まり、自分は車内、リトルはホームと離れ離れになってしまいます。ニッキーはパニックです。次の駅で降り、再び戻りを繰り返し、街をさまよい、いったん地下に戻り、ジョンともめ、なんだかよくわかりませんが火が出ている地下を逃れ、再び地上で探し回り、そして地下鉄に乗り、ふと見ると座席の下にリトルが…。

ニッキーは逡巡し、そして車掌に座席の下に子どもがいると告げます。警察がやってきてリトルが保護されるところを離れて見るニッキーです。

やはり短編の物語です。そのほうが映画としてもぎゅっと詰まったいいものになると思います。

情緒で売ろうとしないほうがいいのではないか

邦題は「きっと地上には満天の星」ですが、原題は「Topside」です。内容からすれば「地上」という意味もあるでしょうし、あるいは今よりももっと上のものといったニュアンスもあるのかもしれません。

それに、これは母親であるニッキーの話であって、リトルが地上に希望があると思っている話ではありません。リトルは地下しか知りませんし、地上に満天の星があるなどと思っていません。ただ母親と離れたくないと思っているだけです。

母親がどういう判断をするかという映画です。オリジナルのポスターもこれです。