あなたは現実を見てみぬふりをしているだけだと、言えば言うほどさとくんに近づいていく…

このところ見る映画の邦画比率が無茶苦茶高くなっています。それだけ見たいと思う海外の映画が入ってこなくなっているということだと思います。カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアあたりの映画祭の受賞作じゃないと客が入らないということなのかも知れません。いや、受賞作であってもさほど入っているようには感じられなくなっています。残念なことです。

で、邦画の、石井裕也監督「月」です。随分久しぶりの印象ですので調べてみましたら「アジアの天使」以来でした。

月 / 監督:石井裕也

石井裕也監督らしくない映画…

オファーされたからといって軽く流せるような題材ではありませんので、石井裕也監督もそれなりの覚悟を持って撮ったんでしょう。その思いは感じられる映画ですが、軽快に物語を進める石井監督らしくない映画です。

辺見庸さんの『月』が原作とのことで、およそどんな小説なのかとググってみたところ、知的障害施設に入居している重度障害者「きーちゃん」の一人称小説のようで、そのきーちゃんからみたさとくんとのダイアログのような構成が想像される内容です。ですので、映画の主人公となっているふたりの「ようこ」、作家の洋子(宮沢りえ)も作家志望の施設職員陽子(二階堂ふみ)も映画の創作じゃないかと思います。仮に登場するにしてもきっと主要な人物ではないでしょう(小説についてはすべて未確認です)。

障がい者施設のベッドに“かたまり”として存在するきーちゃん。施設の職員で極端な浄化思想に染まっていくさとくん。二人の果てなき思惟が日本に横たわる悪意と狂気を鋭く射貫く。文学史を塗り替えた傑作!

KADOKAWA

読んでみましょう。

津久井やまゆり園事件をモチーフにするも…

2016年に起きた「津久井やまゆり園事件」がモチーフになっています。神奈川県の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の元職員が一度に19人もの入居者を殺害した事件です。

映画ではテーマを明確にしようとしたのか、かなり誇張された描き方がされています。施設のロケーションを鬱蒼とした森の中にしたり、室内も薄暗く、また薄汚く描かれており、まるでホラー映画のようです。入居者のシーンはさほど多くはないのですが、監禁状態を強調するような描き方です。

きーちゃんやさとくんは登場するものの原作とは別ものかも知れません。外部からは話すことも見ることもできないようにみえる重度障害者の「きーちゃん」の一人称小説をそのまま映画にすることもできないと考えたのかもしれません。映画では重度障害の子どもを3歳で失った作家堂島洋子(宮沢りえ)を軸に物語を進めています。

洋子は東日本大震災を題材にした小説で文学賞を受賞した作家です。夫はアニメーション作家を志すもいまだ評価されない昌平(オダギリジョー)です。ふたりの子どもは生まれながらに重度の障害をもっていたらしく3歳で亡くなっています。洋子はそのショックから書けなくなっており、生活費のためなのか知的障害者施設で働き始めます。

かなり無理のある設定ですが、いろいろ考えた末の結果なんでしょう。脚本も石井裕也監督です。

施設には作家を目指す陽子(二階堂ふみ)とさとくん(磯村勇斗)という職員がいます。他にふたり男性職員が登場しますが、入居者を暴力的に扱うという役割を担わされているだけで映画的には重要ではありません。

映画はこの洋子、昌平、陽子、さとくんの4人で進みます。

小説の主人公(と思われる…)きーちゃんは、洋子が働き始めた初日に対面し、生年月日が同じということで洋子が親しみを感じる入居者として登場します。きーちゃんは話すことも見ることもできない存在だと職員たちからは考えられており、過去に職員の誰かが暗いほうが落ち着くだろうと窓もふさがれた暗い部屋のベッドに横たわったままです。

映画ではこのきーちゃんをあまりいかせていません。映画後半になりますと、洋子が自分自身をきーちゃんに重ね合わせるようになり、映像的には洋子自身がベッドに横たわっている幻影を見るということで宮沢りえさんがベッドに横たわった映像が入ったりします。

原作がきーちゃんとさとくんのダイアログだとすれば、洋子をきーちゃんとシンクロさせて、洋子にきーちゃんの代理をさせようとしたのかもしれません。だとすれば、後半の洋子とさとくんの論争部分は原作にあるものと考えられます。

洋子の創作が裏目か…

で、それがうまくいっているかということになりますが、結果としてはかなり無理があるように感じます。わざわざ生年月日が同じだからとしたもののそれ以上にきーちゃんと洋子をシンクロさせることはできず、洋子がきーちゃんと会話するワンシーンしか入れられずに終わっています。

結局のところ、この映画が描いているのは洋子の葛藤です。

本当は、この題材であれば大量殺人を犯すことになるさとくんを軸に進めるべきだと思いますし、難しくてもさとくんを中心に据えて真正面からぶつかるべきテーマだと思います。

さとくんは、いわゆる優生思想に取り憑かれている人物です。それゆえ表に出てくる葛藤がありません。葛藤のない人物を中心に据えて映画を作ればそれはシリアルキラー(的な…)を描くだけの映画になってしまう可能性もあります。おそらくさとくんで葛藤を描くことは無理との判断から、それに変わる人物として洋子が創作されたんだと思います。

洋子の葛藤は新たに妊娠した子どもを生むかどうかです。それは、再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤です。かなりあざとく、また強引すぎるとは思いますが、映画冒頭に、聖書からの引用で一度起きたことは再び起きる(といったことだったと思う…)といったスーパーを入れたり、本編でも洋子がそんな言葉があると陽子に語ったりします。それに対して陽子は知っていますと答えるわけですが、これもまた、それを言わせるために陽子をクリスチャン(かどうかは?…)にまでしています。

そして、その洋子を知的障害者施設の職員にして重度障害者介護の現実(かどうかはわからないが…)を見せることでさらに洋子の葛藤を増幅させようとしたんでしょう。

やはり、さとくんに迫らなければ…

しかしながら、そもそも、ある人物が優生思想へと直線的に突っ走っていく(さとくんはそう見える…)ことと洋子の葛藤を同じ次元で語ること自体に問題があるように思います。結局、映画はどうしようもない袋小路に陥るしかなくなります。

本来社会的な問題として議論すべき問題を個人の判断や価値観に落とし込めてしまっているということです。自分たち(この映画つくっている側…)はこれだけ考えているが、あなたたちは見てみぬふりをしているだけだとぶつけるだけではなにも始まりません。

映画の中で直接的にぶつける役割は陽子(二階堂ふみ)が担っています。陽子は、洋子の小説が好きだと言いながら、現実を描いていない、見てみないふりをしているだけだと非難します。非難するときの陽子を酔っ払わせていたり、陽子にも家庭、特に父親との問題があるとしているのはつくり手の後ろめたさの現れでしょう。

その後ろめたさを抱くことが、実はさとくんと同じ地平に立つことにつながるような気がします。映画の中の現実として、結局さとくんは入居者を何人も殺害してしまうわけですし、洋子はそれを止めることもできず、自らのことにも結論を出せないまま終わってしまいます。

人間は言葉を手にしたときから個人ではコントロールできない過剰なものを身につけた存在です。優生思想が自然淘汰の延長線上にあるとすれば、それはコントロールしなければいけないものなのにそうできないものとして人間を脅かし続けるものです。それをコントロールする装置として社会というものが存在します。人が生きるものとして存在している以上、それを否定できるのはその個人だけです。他人にそれを否定できないというルールが社会という存在です。

映画がこの題材を取り上げるのであれば、なぜ現代社会はさとくんという存在を許容するようになったのかであり、やや飛躍するかもしれませんが、なぜさとくんと同じような考えを持つ人物が国会議員でいられるのかという視点で描くべきです。

映画なんですから、工夫すれば、もっと直接的にきーちゃんとさとくんのダイアログとしてこの事件を描くことも出来たんではないかと思います。

宮沢りえ、二階堂ふみ、磯村勇斗、オダギリジョー…

宮沢りえさんは苦悩ばかりが続くシーンでかなり窮屈そうです。

二階堂ふみさんは要求されている役割をとてもうまく演じています。

磯村勇斗さんは過剰なところがなくうまくはまっています。

オダギリジョーさんは、こうしたキャラがひとりくらいはいないとという気もしますが、かなり浮いた感じがします。

ということで、やはり石井裕也監督には向いていないジャンルの映画です。少なくとも脚本を他の方に任せたほうがよかったようには思います。